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 日本の長野県で起きた女性や警察官を次々に殺害した事件の容疑者の供述は、一言で言えば社会からの孤立感だったようです。多くの若者が生きづらさを感じ、世界中で同じような現象が起きています。フランスでも引き籠りが増え、社会問題化していますが、いったい何が原因なのでしょうか。

 何か問題が起きると何でも人のせいにしてしまうような分析は極力避けたいところですが、私は最近、自動車の運転に譬えると理解しやすいように思っています。40年以上前、バイトで毎日、東京都内を自動車で走っている助手席で、隣の運転手が他の車に向かって「バカ野郎!」「どこ見て走っているんだ!」と叫んでいるのをよく聞きました。

 その時、この運転手の声が他の車のドライバーに聞こえたら、たちまち大喧嘩が始まるなと思いました。今まさにSNSの時代に突入し、本音が行き交う世界で多くの人が傷つき、孤立感を味わっています。

 韓国では脱北者が北の惨状を訴えるYouTubeを運営していて、韓国の若者から脱北者がもてはやされていることへの嫉妬もあり、命がけで脱北した人間に対して心ない非難の声を浴びせ、孤立化に追い込んでいる例が紹介されていました。

 ヨーロッパでもウクライナ紛争を逃れた難民に対してSNS上で、シリアやイラクなど他の地域からの難民が同情するのではなく「白人は特別扱いか」「イスラム教徒は差別されているのに」といった批判の声があがったりしています。

 一方でLGBT差別をなくそうなど、多様性を受け入れる社会を実現しようと言いながら、本音が放置されるSNSによって、人間の醜い部分やモラルのなさが露呈し、生きづらさが増しているように見えるのは矛盾です。

 犯罪学の世界では犯罪者の動機の多くが「身勝手によるもの」、つまり自己中心によるとしており、断罪されています。にも関わらず、犯罪に発展しなくても心の中(ドライバーでいえば車内)で身勝手な思いを持つことに対しては取り締まる法律はなく、歴史的には宗教がブレーキを踏んでいました。

 最近、しっかりビジネスの世界で定着してしまったコーチングの中に「承認」という項目があります。これはチームのメンバーが心地よく働くために非常に効果的とされています。その中身は相手を褒めるのではなく、認める行為を推奨することです。

 心理学の世界では、この40年間、褒める効果が強調されてきました。しかし、褒められた方のリスクは自分が能力的に最も優れているという自信に繋がる一方、自己愛、つまり、他と比較して自分を誇る自己中心に陥りやすいことです。

 これに対して「承認」の基本は、相手への関心を示すことです。「何々さんは、いつも朝早く来て事務所の掃除をして、会議の準備も万全で皆が助かっている」と相手の行動を正確に把握し、それをポジティブに指摘することです。「あなたが1番」とはいわないことです。

 人間は自分に関心を持ち、それをポジティブで正確に描き出してくれる行為には愛情を感じるものです。職場も家庭も、常に孤立感のリスクを抱えています。孤立感を与えるのはネガティブな評価や嫌悪、無関心です。

 一方、ポジティブな判断を下すのは価値観です。多様性が認められれば人生のパターンは何通りあってもいいはずです。勝ち組負け組という言い方は、人が何度でもリベンジできることを否定したとんでもない言い方です。今の社会は、金と名声に偏りすぎ、それを手に入れられないと不幸と考える人が増えています。

 それが学校でも、社会の様々な組織にも蔓延し、人を生きづらくしています。さらにSNSの発達で金と名誉を得た人への嫉妬心から、心ないネガティブな批判が飛び交っています。多様性を強調しながら、逆に価値観の偏りが目立つ社会になってしまっています。

 無論、だからといって悪も含めた身勝手な価値観を受け入れる何でもありのリベラリズムも人間社会を破壊してしまいますが、人があまりにも外面的なものに心を奪われていることは危険信号とも言えるでしょう。

 とにかく、孤立感による孤独からくるネガティブ思考を避けるために「認める」ことと、「皆同じでなくてもいい」という考えが社会に拡がることを自分への自戒を含め、願うばかりです。