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 身近に生きづらい若者がいる筆者は、最近では海外赴任先で赴任鬱に陥る若者を見る機会も増えています。鬱病は差別用語と受け止めるべきではなく、誰もがその因子を持っていて条件が整えば誰でも発症するものです。最近は欧米でも増加が報告されていますが、ハイコンテクストの国ほど多いようです。

 たとえば、フランスでも引き籠りが増えており、国として彼らへのサポート体制を強化していますが、自らの意志で引き籠っているわけなので、本人の意志と関係なく支援することは困難を極めています。管理職予備軍の若いエリート社員が上司や顧客からのプレッシャーで自殺する例も散見されます。

 社会的孤立、精神的健康を害する若者は深刻な社会問題ですが、本人の心の中の問題だけに扱いは非常に困難を極めています。アメリカでは近年、アスペルガーの若者に特徴的な特殊な優れたスキルを企業が活用する目的で、彼らが働きやすい環境を整えて職場を提供し、成功している例もあります。

 ここで重要なことは身体的、精神的な特殊性を持つ人々を障がい者にカテゴライズせず、その人の個性として受け入れることです。ある会社では、社内で鬱やパニックに陥りやすい社員をサポートするシステムが出来上がり、例えばパニックになる部下を上司がフルサポートする文化ができ上っている会社もあります。

 フランスでは10年以上前から社員に対する福利厚生として、1カ月に1回、メンタルクリニックに行く費用を負担する企業が増えています。最も多いのは鬱病ですが、恥ずかしいこととか隠すことにはまったくなっていません。日本だと古い世代は「精神的弱さ」といいますが、それはありません。

 がん細胞と同じで誰もが鬱病因子を持っており、発症させないための環境づくりは重要です。ハイコンテクスト社会に引き籠りが多い理由の一つは、1つの共同体に目に見えない明文化されていない常識やルールが存在し、それが読めなかったり、従えないと村八分の排除の論理が働くことが考えられます。

 日本は世界的に見ても目に見えないルールの山で、一般的には外国人が住みづらいとされています。30年以上日本で暮らすアメリカ人は「卵の上を歩いているようで、踏み間違えば殻が割れ、恐ろしい状況に落ちていく」と言っていました。

 外国人がそうならば、日本人の中にも目に見えないルールや常識に馴染めない人はいるわけで、それも「皆、同じでなければいけない」という強い村社会の集団心理的圧力が加われば、人間関係を持つことは困難になり、孤立するのは当然です。

 多様性という言葉には様々な意味があり、保守的な人は伝統的価値観や常識が壊されると警戒し、リベラルな人は、これまでの常識を打ち破るために利用しようとします。

 多様性が有効に働くためには、実は価値観や規範、ルールは必要です。アメリカはどんな文化的背景を持つ人でも分かるルールを決め、それも誰もが受けいれられる価値観を模索しています。その自由、平等、公正、正義、人権に反対する人はいないでしょう。

 なんでもありの多様性は、無秩序なソドムゴモラに陥る危険性をはらんでいることは歴史が証明しています。同時に多様性に絶対必要なのは寛容さです。価値観の押し付けは裁きをもたらし、人を追い込んでいくからです。寛容さの核は愛情です。

 今、外国人労働者の受け入れの法整備の見直しを日本政府は行っていますが、日本の秩序と国益を守ることに重心が置かれるのは当たり前としても、非常に細かい規制ばかりが一人歩きし、私の知る限り、外国人の多くは日本の政治家や役人に愛情を感じていません。

 少子高齢化が解決できない以上、移民受入れしか選択肢がなくなっている現状を考えれば、その冷たさは大きな問題になる可能性があります。アジアで「日本企業は冷たい」といわれることが多いのですが、違いに対して無意識に冷酷であることは問題です。

 まずは日本社会が健全さを保ちながら寛容さを身に着け、排他性を排除し、多様性を受け入れることで孤立する国内の若者を減らし、外国人も住みやすい社会を作るべきというのが私の考えです。