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 カタールW杯の現地時間29日に行われたイラン−アメリカ戦は、すべてのチームが決勝進出の可能性を残すグループBの第3戦、引き分け以上で初の決勝トーナメント進出が決まるイラン、勝たなければ後がないアメリカの緊張した試合でした。結果はアメリカが1−0で勝利しました。

 そんな緊張感のある試合を前にして、米国サッカー連盟が26日にW杯の成績表についてイランの国旗から中央の紋章を消し去ったかたちでSNS(交流サイト)に掲載したことでイランが強く反発しました。紋章は親米政権が転覆した1979年のイラン革命後に加えられたもので、イランのイスラム化を嫌うアメリカの戦闘的な姿勢を表したものでした。

 イランは今、スカーフ着用の仕方が悪いとして逮捕された女性を当局が死亡させたことに端を発し、全国各地で反政府運動が起きており、特にイスラムの厳しい戒律からの自由を訴える運動が盛り上がっています。自由主義の先頭に立つアメリカとしてはイランからイスラム勢力の影響を奪いたいところです。

 W杯は平和の祭典と呼ばれ、スポーツを共有することでギクシャクする外交関係を修正する効果があるといわれていますが、実はそんなに成功した例はありません。仏日刊紙ラ・クロワはそのあたりのことを伝えています。

  フランスを始め、ヨーロッパはカタールW杯そのものを批判しており、主に南アジア諸国出身のW杯の建設現場で働く外国人労働者が酷使され、死者まで出ていること、LGBTQや女性蔑視、3つ目は大規模インフラ整備工事や巨大会場の冷房で大量の化石燃料が使われ、温暖化対策に逆行していること、さらにはW杯決定プロセスで巨額の不明瞭な資金が動いたことでした。
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 そもそも今回、イランの選手は試合前にイラン政府に対してイラン女性への連帯を示す抗議のため、国歌斉唱を拒否しており、政治の持ち込みを禁止している国際サッカー連盟(FIFA)のルールを破っていました。そこに今度は、SNSに「アッラー」という言葉を表すイラン国旗の紋章を削除したアメリカ連盟にイラン側が制裁を要求しました。

 W杯の過去を辿ると、冷戦時代の東西ドイツの有名な「兄弟殺しの戦い」がありました。1974年の西ドイツ開催のW杯で東ドイツが参加したことで厳しい対立がありました。結果は西ドイツに東ドイツが勝つという驚きの結果で、東ドイツは名将ベッケンバウアー率いる西ドイツに勝利しました。

 唯一の東ドイツの得点王ユルゲン・スパルワッサーは、東ドイツで英雄となりましたが、数年後、西ドイツとの元選手のためのトーナメントへの参加を利用して、東ドイツから亡命しました。

 2010 年のワールド カップ予選中の北朝鮮と韓国の間の死闘もありました。未だ休戦状態にある南北朝鮮の一歩も譲らない両国の戦いは、アジア予選では北京で死闘を繰り広げました。この時、北朝鮮に全世界の視線が注がれましたが、国境を接する 2 つの国の間に明らかな進展は見られませんでした。

 イギリス政権とアルゼンチンが対立したフォークランド紛争から4年後の1986年のメキシコ開催のW杯では、2 つの国が再び対戦しました。マラドーナは、ゴール前で明らかにハンドとわかる違反を犯しながらゴールを決め、「神の手」と呼ばれましたが、英国人の怒りを消えていません。

 W杯だけでなく、親善試合でもフランス対アルジェリアのの2001年の試合で、試合中、スタッド・ド・フランスのピッチに多数のアルジェリアのサポーターがなだれ込み、試合の突然の終了につながりました。

 歴史を辿れば、1938 年にフランスで開催されたW杯で、フランス・イタリア戦で観衆の大半は反ファシストで構成され、イタリア代表に大ブーイングしましたが、結果はイタリアが勝利し、 ムッソリーニは、自国の勝利を利用して、彼の社会モデルを称賛しました。

 越えがたい2国間の対立と緊張を一瞬和らげる効果はスポーツにあっても、勝ち負けを争うのがスポーツの常で、場合によっては対立を助長することもあります。誰もが楽しめるスポーツを通じて対立の愚かさに築くような時代になることを願うばかりです。