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 前近代的生活を守るアメリカのアーミッシュの子どもたち

 イエス・キリストが現れた2020年前、当時のユダヤ地域はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国の政治体制は元老院・政務官・民会の3者によって成り立っていたとする考えが一般的で「独裁者を許さない」という原則で統治されていたとされます。

 同時に戦争によって領土を拡大した帝国にとっては、獲得した領地で彼らが最も警戒したのは独立運動で反逆者の徹底排除が統治の原則でした。今でいえばロシアがクリミアを併合し、ウクライナへの回帰を画策する人間はアメリカ諜報機関の報告によれば、逮捕、投獄、拷問が日常化しているのと似ています。

 イエスは当時のユダヤ総督ピラトに「イエスがローマ皇帝以上の存在」と主張しているとの噂を聞き、ユダヤ統治の脅威と見なされ逮捕され、裁判にかけられました。イエスは誰であっても神以上の存在はないと述べたのに対して、ピラトはイエスは唯一神の子と主張していることに脅威を感じたことが新約聖書に書き残されています。

 とはいえ、ピラトは良き総督であるために間違った裁可を下す記録を残したくないため、そこに集まったユダヤ社会に圧倒的影響力を持つユダヤ教聖職者ラビに意見を聴き、イエスに偽善者と非難されるラビたちはイエスの死刑を支持し、結果的にイエスの隣にいた罪人のバラバは無罪放免となり、イエスは磔刑となりました。

 実際に民主的な手続きを踏んでいるように見えて、ピラトの態度はローマ帝国による統治が全てであり、皇帝以上の存在を主張し、統治の脅威になる者は排除するのが原則だったことは明白です。

 宗教というと道徳と結びつけるのが日本人の一般的認識ですが、イエスは「自分は剣を投げ込みに来た」と語り、当時尊敬を集めていたラビたちの偽善的態度まで強く非難し、ローマ帝国だけでなく、肝心の自分の足元のユダヤの指導者も敵に回して宣戦布告してしまったわけです。

 道徳的態度なら社会の安定や秩序を壊す行為も悪い行為なはずですが、イエスが持ってきたものは現状肯定ではなく、神が受け入れる非常に高い厳しい心のルールによって信仰の形式主義を否定したことと、皇帝の支配ではなく、神による支配を説いたことが彼の死を招いたといえます。

 既得権益を持つユダヤ教指導者にとっては、イエスは完全な異端であり、排除すべき存在でした。ところがイエスの生きていた時の言動は普遍的であったために、その後の人々の心に強烈な影響を与え、世界宗教となり2000年以上もキリスト教は支持されています。

 実はそのキリスト教も数えきれないほどの分派が生まれ、有名なのはルターやカルヴィンによって起きたプロテスタント運動でした。巨大化したカトリック教会の内部腐敗を批判し、原点回帰を主張したために、多数の犠牲者を出す宗教戦争まで引き起こしました。

 特に聖書の教えに忠実なアーミッシュ、メノナイトなどドイツ系のルーテル派(ルター派)の宗教集団は禁欲主義でイエスの教えを忠実に生活実践することを重視しています。新渡戸稲造も信者だったクエーカーも地味な中世風の衣服を着用し、彼らは聖職者を置かず、毎週の集会で、その週に神に出会った信者が証し、皆が恩恵を分かち合う礼拝を続けています。

 彼らキリスト教原理主義の信徒はしばしば社会との軋轢を生み、たとえばモルモン教は過去には原則、一夫多妻制でしたが、一夫多妻を禁じる合衆国の法律に触れるため、非難され、今では1部にしか存在していません。

 そもそもユダヤ教、キリスト教、イスラム教という旧約聖書を共有する1神教は、人類の起源にまで遡った明確な世界観を持ち、神の規定は皇帝や国王、天皇とは次元を異にしています。当然ながらその世界観が国にとって脅威となり得ることもあるわけです。

 宗教は心の安らぎを得るもの、心の支え、道徳を維持するため、生きていく上での困難に対して奇跡を起こし、ご利益を得るものと考える一般的な日本人の宗教観は、1神教の世界観とは大きく異なったものであることは明確です。

 そのため信教の自由、政教分離の意味合いも1神教的理解とは異なることになります。