47058274042_daacc59efc_c
 
 もう随分昔の話だが、作家の故辻邦生氏から「男性よりも女性の方が普遍性を持っている」という話を聞いたことがある。東京で学生新聞を作っていた時、当時スタッフだったお茶の水大学の学生で辻文学ファンが辻氏の学習院の研究室にインタビューに向かった。丁度、辻氏の妻、佐保子氏がお茶の水大学の教授になった頃のことだった。

 辻氏は「女性は何千年もの間、子を産み育てる性として時代に左右されることのない使命を持っていた」と指摘した。「それに比べて男は社会的な影響を受けやすく、本質を見失いやすい」ともいった。その指摘は今も頭の中に不思議に残っている。

 男も女も人間は誰でも女性から生まれ、人格や様々な性質、能力の基礎が築かれる幼少期を母親によって育てられる。今ならジェンダーフリーのフェミニストから批判されそうな話だが、人間の営みが本質的に変わることはないはずだ。

 そういえば、事実は確認したことはないが、江戸末期、海援隊を率いて新しい国づくりを夢見た坂本龍馬が「女たちを引き連れて国づくりをする」といったという話がある。女性は平和の象徴だったという話だ。

 なぜ今、そんなことをいうかといえば、血なまぐさい時代の到来で世界を殺し合いから救うのは生を生み出し、育てる女性の力が必要だと思うからだ。

 特にエリザベス女王が亡くなって、さらにそれを強く感じる。狩人のルーツを持つ男たちはバイキングの時代から血に飢え、殺戮の歴史を繰りかえした。外的から家を守るには必要な強さだが、21世紀に入っても野蛮な戦争を続ける性質は男からきていることに間違いない。

 私の勝手な個人的想像では、プーチン露大統領はアメリカと肩を並べるソ連帝国が、ゴルバチョフの手によって惨めにも西側自由世界の軍門に下ったことを受け入れていなかったと思われる。事実、プーチンはゴルバチョフが死んでも葬式にも行かなかった。

 同時に外から見れば共産主義のソ連だったが、ロシア人にしてみれば共産主義はロシアの繁栄と栄光を表す道具でしかなく、今はロシア帝国の繁栄とその皇帝の座をめざすプーチンの燃え滾る執念と民族主義こそが、今のロシアを突き動かしているようにしか見えない。

 それも同じ共産主義を統治のツールとして選んだ隣国の中国が、今やアメリカを相手にした最強の国家にのし上がったことへの不快感は図りしれないものがあると私は想像している。西欧コンプレックスの強いロシアが下に見ていた中国に抜かれる屈辱感は想像に難くない。

 今回、プーチン大統領が国民総動員にも繋がりかねないウクライナ戦争への動員を決めたのも、男性として始めた喧嘩を勝つまでやめるわけにはいかない男のプライドが漂っている。中国ではなくロシアに目を向けさせるための戦争にも見える。

 抜いた刀を元の鞘に納める道を男は知らない。なぜなら平和な状態は狩人の男には退屈だし、負けは腕力で存在価値を示す自らの否定に繋がるからだ。

 エリザベス女王は冷戦に突入したとはいえ、実際に血を流し、多くの人々が犠牲になった第2次世界大戦終了後に登場し、英連邦を守りながら、戦争を最小限に抑えることに貢献した君主だった。非生産的というしかない戦争で互いを殺し合う野蛮さを抑えられたのは彼女が女性だったからではないかと密かに思っている。

 それに聖書には女性は「善悪知るの木」とある。善悪を見極める目を持っているという意味では、正義が何かを知っているという意味でも普遍性を持っているといえそうだ。無論、女は悪に走れば男以上に国を滅亡に導く恐ろしい存在になり得るという意味では、女であればいいという話でもない。

 東洋には男性中心主義が残っているが、一歩間違えば勝ち負けの野蛮な戦いモードに入る男にはリスクもある。そこに常に善悪を知る女性の存在があってこそ、殺戮モードに入らないで済む道があるのではないかと私は考えている。男と女、どちらが上という話ではない。

 野蛮な男たちが核兵器を振り回して世界を血まみれの戦争に陥れる前に、善悪と普遍性を知る女性の力を借りて刀を納める道を探す時が来ているように感じるが、東洋では的外れなのだろうか。