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 モンマルトルの丘のテルトル広場で絵を描いていた友人のフランス人画家が亡くなったのは、今から20年以上前のことでした。彼は、私の知る限り、モンマルトルの似顔絵描き仲間では、彼の右に出る者はいないと言われるほど、デッサン力のある画家でした。

 ニューヨークのビルの壁画のプロジェクトに呼ばれ、仕事したこともありましたが、アメリカは肌に合わず、無名のモンマルトル画家であり続けたことを選んだ男でした。仲間からは「愚かだ」とも言われたそうですが、下手くそな画家が大物画家と崇められる国には耐えられなかったと言っていました。

 妻も子供もいた40代の友人でしたが鬱病に悩み、自殺してしまいました。彼の画家としての感性は鋭く、常人が感じないものを感じていたのは確かです。葬儀に参加した時、このモンマルトルで才能がありながらも、運に恵まれず、露と消えていった画家たちが数多くいたことに思いを馳せました。

 モンマルトルのテルトル広場は免許制ですが、観光化が進み、3流画家しかいないという人もいます。事実、そう思っても無理もない画家もいますが、中には観光客用とは別に自宅のアトリエで、野心的な作品を制作し続けている画家も知っています。

 また、フランス政府は、多くの巨匠を産んだモンマルトルにアトリエを提供し、画家を支援しています。日本から来た客が「パリらしさを感じられる場所に連れていってくれ」と頼まれると、モンマルトルに連れていくことにしています。パリを見下ろすモンマルトルには、古きパリを感じさせる要素が、そこかしこにあります。

 産業化が進む19世紀末、モンマルトルはパリを見下ろす小高い丘に風車小屋のある市民の憩いの場所でした。その時代の様子は、ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や、ロートレックのムーラン・ルージュに描き出されています。無論、その当時のような活気はないにしても、町並みが大きく変わってしまったわけではありません。

 ユトリロが徘徊し、絵を描いたコタン小路の階段は今でもあるし、その階段の脇に画家を目指して住む外国人がいることも知っています。モンマルトルには、画家たちを暖かく包み込む何かがあるのかもしれません。今は丘の上は高級住宅地にもなっていますが、庶民的な町としての活気はけっして失われていません。

 モンマルトルを目指す観光客が、まず驚くのは地下鉄を降りた辺りのピガール界隈の猥雑な雰囲気。ユダヤ人やアラブ人が仕切る反物屋や、おみやげ品店はまだしも、大通りにはポルノショップなどの風俗店が店を構え、怪しげな男たちが昼間から客引きをしています。

 その反物屋を縫うようにして歩いていくと、目の前の丘の上にサクレクール寺院の白い建物が、周りの混沌とは対照的な存在として浮かびあがってきます。ユトリロのサクレクール寺院は、モンマルトルの細い路地から、建物の間に描かれることが多かったわけですが、寺院にのぼる階段付近には、偽ブランド品を売る黒人たちが布を広げて待っています。

 パリ唯一の葡萄畑も残っているし、ユトリロが眠るサン・ヴァンサン墓地もそのままです。多くの画家たちが、この丘で絵を描き、交友を深め、その多くは外国人でした。パリが最も芸術の吸引力を持っていた時代、モンマルトルは芸術家の聖地だったと言えます。

 産業化による都市化が進む中、パリに残された自然が当時はあり、パリ市民が集まり、世界中から野心を持った芸術家が腕を競った時期があった特別な場所です。コロナ禍で閑散としたモンマルトルにも活気が戻り、今でも人気スポットになっています。ただ、犯罪の多い町としても知られているのは残念なことです。



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