freedom

 東西冷戦時代の終焉の時、鉄のカーテンをくぐって旧ソ連や東独を取材した経験を振り返って、今のウクライナ危機や米中対立は何が最も違うかといえば、西側が対立する国々の国民生活がはるかに改善されていることです。私が目撃したような貧しさはロシアや中国にはありません。

 さらに異なるのは、自由主義の国と権威主義の国の間に冷戦時にはなかった経済依存があることです。欧州を筆頭に日本を含め、ロシア産原油や天然ガスに頼っている国の多さに驚かされます。それに権威主義の国がどんなに言論統制してもIT時代では簡単に国境を越えて情報が得られます。

 それに冷戦時代のように西側の人間が中国やソ連に入る時のような非常に犯罪な手続きも必要ありません。たとえば旧西ドイツのハンブルクから東ドイツに列車で入国するのに国境で2時間以上検問で待たされました。中国は外国人旅行者のパスポートを取り上げました。

 そんなことは過去になり、対立する国同士に鉄のカーテンはないようにも見えます。実際、ウクライナ紛争では、西側メディアの取材班は、ウクライナ軍にもロシア軍にも同行しています。随分、東西冷戦時代よりは風通しは良くなっているのは事実です。

 しかし、政治は別物です。ソ連や旧東独の崩壊には国民生活の貧困は大きな影響を与えました。私は実際、モスクワやレニングラード(現サントぺテルスブルク)、ライプチヒなどで、まさに半世紀前にタイムスリップしたような貧しい状況を目の当たりにしました。

 国民生活の質の歴然としたギャップは共産党政府を追い込む原因の一つでした。しかし、それが主要因化といえば、そうとはいえません。ソ連帝国崩壊の最大の要因はアメリカとの軍事力のギャップでした。さらに当時、東ドイツで起きたことは自由を求める市民の抗議行動でした。

 人は極端に自由が制限されれば、どんな高邁なイデオロギーを説いてもついてきません。自由には言論の自由、信教の自由、表現の自由、選択の自由などがあります。さらには人権抑圧も人々の不満を高めます。権威主義の国は、これらの自由を制限することで国を統治しようとするわけです。

 しかし、自由にもリスクはあります。自由主義の自由は「身勝手に自己中心的に生きる」こととは違いますが、誰もがそれを分かっているわけではありません。

 自由主義を代表するアメリカに逃げ込む中米移民が多く住むテキサス州で銃乱射事件が起きるのは皮肉なことです。自由と安全、貧困からの脱出を求める移民たちがアメリカで見た者は銃の乱射による無差別殺人というのは皮肉なことです。

 21世紀はイスラム原理主義のテロに始まり、今は権威主義の国が台頭しています。国家はテロ組織などよりはるかに強力な存在です。ところが彼らの標的となる自由主義の国々が、どれだけ権威主義の国より優れているのかは問われていません。

 問題はそこにあると私は見ています。自由主義も民主主義も法治国家も頭脳で考え出されたもので、長い歴史を持つ国に当てはめるのは容易ではありません。理念が入って建国したアメリカやカナダ、多文化共存主義を打ちだす西洋人が作ったオーストラリアやニュージーランドも、パラダイスとはいえません。

 自由主義も民主主義も成熟化し、質を高めるには前提となる国民の公的モラルが必要なはずなのに、そのモラルを形成する宗教はリベラル派によって社会の隅に追いやられています。結果的に家庭は崩壊し、伝統は破壊され、身勝手な人間を増やし、権威主義の国から軽蔑されています。

 実はリベラリズムも頭で考え出された思想で、人間の複雑な心を扱う宗教ほどの普遍性はありません。所詮は人間が科学的と称して頭で考え出したもので、共産主義や社会主義と大差はないわけです。

 無論、宗教も独善主義と各教派の勢力争いに追われ、守銭奴になって宮殿を建て、最も重要な目的であるはずの人間が自己中心を脱し、為に生きることで共存、発展していくというところに重心が置かれていません。身勝手な自由主義に追い込められ、極めて自己満足的、ご利益的信仰に堕しています。

 つまり、権威主義の国を無力化しようとするならば、自由主義の国が拝金主義を脱して、自由の意味を理解し、社会や人に喜んでもらえる生き方こそが唯一普遍的だということで、高い満足感を得る意識転換が必要ではないかと思います。単なる欲望の肯定による自由主義、資本主義では権威主義に勝つことはできそうもありません。