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 日本のデジタル化の遅れが盛んに議論されています。デジタルトランスフォーメーション(DX)の牽引者の多くに感じることは単純な「技術革新が未来を拓く」というフレーズ。確かに人類は何度かの産業革命を経験し、人々の生活を大きく変えたが、全てがうまくいったわけではない。

 私が痛感するのは、理系人間がけん引するDXには、文系人間の知恵が必要だということです。かつて19世紀に登場した科学的アプローチは、それまでの非科学的な宗教を弱体化させた。その典型がカトリックが長年信じてきた奇跡で、たとえばパリの守護聖人サン・ドニは処刑され、はねられた首を自分で持って歩いたという逸話が残っています。

 今ではホラーのような話ですが、医学的にありえなくても宗教的にはあり得る奇跡だが、科学の登場で信じる人はいなくなった。ただ、サン・ドニの信念や執念は極端な奇跡の逸話とは別に普遍性を持って残されている。

 科学的に割り切れないものを排除する科学至上主義がDXの先導者であることは間違いないし、実際、ネット時代で小国の国家予算を超える収益をあげるGAFAなどの企業の出現は、技術革新に説得力を持っている。しかし、高度化した技術の悪用が問題視され、有害性も指摘されています。

 その典型は、新しいテクノロジーがもたらしたコミュニケーションツールの脆弱性。国政選挙に専制主義国家が意図的、戦略的に影響を与える行為が頻繁に起き、世論操作も行われている。本来はSNSなどは、コミュニケーションツールであって目的ではないはず。つまり手段が目的化している危機だ。

 あまりにも大きな利益をもたらしたGAFAを見て、目的やめざすヴィジョンは吹き飛び、IT技術に関与する人間は、自分たちが世界を再構築していると勘違いしているようにさえ見える。

 技術革新は、常に得るものと失うものを慎重に見極める必要がある。それが歴史が残した教訓のはずです。技術は当然ながら、何らかの問題解決の道具なわけだが、それはある目的があって問題解決を図る必要があるからだ。その目的の中心は本質的には全ての人々が幸福になることのはず。

 某日本の有名大学で教鞭をとるDX関係の教授が、ドイツ滞在の経験を踏まえ「個人主義はエゴで良くないという日本の考えは間違っている。公益性より先に個人の利益を優先して考えるべきだ」という話を聞いて耳を疑った。

 ドイツにしろ、フランスにしろ、公益性は最重視されている。そうでなければ都市の統一的デザインは成立しない。それはローマの時代から文明と都市が深く関わり、宗教的には教会の建物が町の中心にあり、政治的には市民が政治を行う中心が広場として残されている。

 フランスやドイツの大学で行われている指導者教育は、アメリカと違い、公益性が重視されている。公益性追求の背景にはキリスト教の奉仕精神がある。それに個人主義は本来、キリスト教から生まれたもので神と自分との関係を最大化するもので、キリスト教ではエゴイズムは悪とされている。

 日本人が個人主義を誤解する理由は、日本人の滅私奉公的な組織への隷属精神がある。それに比べれば欧米人の個人主義はエゴイズムに見え、うらやましいのかもしれないが、実は彼らの社会的モラルはキリスト教精神に支えられた本来、利他的なものだ。それにドイツはナチスツの独裁の悪夢からファシズム排除で個人主義が目立っている背景もある。

 DX牽引者でも、それぐらいの教養はあってほしいものだが、残念ながら理系人間の悲しさか、一流大学で教鞭を取る人間でも、西洋文明への理解に宗教がぼっそり抜け落ちている。それで世界の問題をDXで解決するんだといわれても「大丈夫か?」と思わざるを得ない。

 英語では理系はナチュラルサイエンス(自然科学)といい、文系はヒューマンサイエンス(人文科学)という。今はその垣根もなくなりつつあるが、中途半端な教養ではその垣根を超えるのは危険だ。両者ともに極めた人に共通なのは真実に対する謙虚さだ。

 未だ、分からないことの山なのが、この世界であり、テクノロジーで世界の問題を解決できるなどという考えは科学の奢りでしかない。自然も人間も非常に複雑で分かっていないことの方が多い。

 それに向かう道を明確化する、つまり、人間にとって有益なヴィジョンの明確化なしのDX推進は自殺行為になりかねないと私は考えています。

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