最近の世論調査で70%以上の国民が安倍政権を概ね評価しているという数字が出ていました。大抵の世界中の政権は政権末期にはレームダック化し、惜しまれるよりは低い評価で終わる場合が多いのに対して、途中退場とはいえ珍しい現象です。最も驚いているのは安倍氏本人かもしれません。
しかし、同時に世論調査で1割にも満たない反安倍派の意見が、1割のマイノリティーの意見とは思えない、マジョリティーの意見のように報じるメディアも少なからず、存在します。まるで今の日本の弱小野党が、あたかも国家を2分する勢力のような顔をして政権批判を繰り返すのに等しい現象です。
実はこの現象は、日本にとっては古くて新しいテーマです。よく「メディアの使命は権力者が暴走しないように監視することだ」といいます。監視者ですから民主主義を脅かす横暴な権力行使や腐敗、隠蔽を暴き、間違いを正すことは重要です。しかし、日本の場合は批判のための批判に墜するケースも多く散見されます。
米国ではトランプ政権になって、世論は完全に2分され、反トランプの論陣を張るニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、CNNなどリベラルなメディアは、あらゆる角度からトランプ批判を続けてきました。一方、対中政策では共和党だけでなく、民主党も厳しい対応に同意しています。
アメリカのメディアを見ると、批判的な記事だけでなく、感動的な出来事を紹介し、賛辞を送ることも普通に行われています。古くて新しいテーマというのは、メディアの使命は批判だけでなく評価も使命のはずですが、批判精神だけが価値があると勘違いする傾向が日本では強いことです。
たとえば「今日はこんな素晴らしいことがあった」とか「新しいヒーローが生まれました」という欧米メディアは少なくありませんが、日本人は「こんな酷いことがありました」というネガティブなメディア報道に慣らされています。問題を指摘できないメディアは見識がないという風潮があります。
批判に力点を置くのはリベラル派の当然の帰結ですが、何でも批判することで、実は何のための批判かは忘れ去られがちです。「権力=悪」とか「多くの人が評価する対象を鋭く批判する批評家精神こそ高い知性を表す」などという考えが根底にあり、左翼リベラリズムを形成してきました。
そのルーツは太平洋戦争で批判が許されなかった終戦までの権力による情報操作、隠蔽、全体主義的国家運営へのアレルギーから、権力批判をすることで国家権力の暴走を止められると信じる左翼知識人を誕生させたことは無視できません。それはなんと今でも日本が引きずっている問題です。
しかし、ある者を批判するのは評価するより容易です。完全な人間など存在しないわけですから、必ずどこかに欠陥があるので、批判は容易です。それに実は批判のための批判なら大した価値観は必要ありません。根拠はヒューマニズムか反戦思想ですが、本当に人権を尊重するなら、北朝鮮による拉致問題に左翼知識人は必死になるべきでしょう。
左翼知識人は米軍駐留や日本の集団的自衛権の行使容認はとんでもないいいますが、前提には日本が武力攻撃を受ける可能性は絶対ないという、世界に稀な現実から完全に遊離した妄想的考えが存在します。さらに左翼的知識人には「大衆は愚か」という上からの差別的目線もあります。
一方、何かを評価してそれを紹介するためには明確な価値観が必要です。価値観があるから評価もできるわけで、何でも批判するよりは難しい行為です。批評家は自分が他の人とは違うことを表現することで優越感を感じる側面もありますが、評価する側は確固とした確信が必要です。
テレビは批判一辺倒とはいかない一方、評価する価値観も曖昧化しています。その結果、人は公器としてのテレビの規制のないSNSなどで心ゆくまで極端な意見を共有しようとします。それが今の現実なのでしょう。
批判者は簡単に自分の座る椅子を変えられますが、評価者は同じ椅子に座る必要があります。それこそが本当の見識というものでしょう。SNSに世論が左右される時代、メディアの唯一残された使命は、その見識を持つことだ私は考えています。
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