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  満州の馬賊は日本人だけでなくロシア人にも脅威だった

 今年他界した私の母は満州・大連からの引揚者です。そのため小さい時から母や近くに住む祖父母から、嫌というほど満州の話を聞かされて育ちました。祖母は満州でのあまりに劇的でドラマチックな体験からすれば、戦後日本に引き揚げてきてからの人生は「付け足しの人生」「瞬き一つ分」などといっていました。

 造り酒屋に生まれた祖母は、神戸のカトリックの女学校を卒業し、裁判官の男性との縁談話があったにも関わらず、父親の遊興で家が没落し、縁談は流れ、路頭に迷う中、親族から話があり、会ったことない祖父と結婚するため、写真を握りしめて単身、満州に渡りました。

 当時、満州で警察関係の通訳官だった祖父と満州内を移動しながら、3人の子どもを産み、最後は大連で暮らしました。満州を転々とする中、当時、出没した盗賊団と化した馬賊に何度も襲われ、時には盗まれた物が近くの道で売られていて、買い戻したこともあったといいます。

 祖父が朝鮮半島に近いところの領事館に勤めていた時は、同僚が電話で呼び出され、行った先で殺害されるという恐ろしい事件を経験し、以来、日本に帰国後も電話で話すことを嫌い、すぐに電話を切ってしまう習慣があったほどです。

 大連生活は身の危険を感じることはなくなり、落ち着きを取り戻し、母は弥生女学校に姉とともに通い、同級生には米国ニューヨークを拠点に活躍するジャズピアニストの秋吉敏子さんもいました。

 ただ、終戦後、祖父がロシア軍に身柄を拘束され、1年後には八路軍(中国共産党軍)に拘束され、行方不明になったため、祖母は夫を置いて帰国するわけにはいかないということで大連に子供共にとどまりました。周囲は日本統治に恨みを持つ中国人もいて、自分たちの身を守ってくれる警察も軍もいない中、味わった恐怖は母の心に深い傷を残したのは事実です。

 ただ、祖父が通訳官で、多くの中国人の世話をしていたため中国人の知人は多く、助けられたといいます。祖父の居場所も、自転車泥棒で捕まった中国人の若者が収容された拘留所で、自分が知っている祖父を見かけ、当局に「この人はいつも中国人の世話をしていた恩人だ」と話し、彼は釈放後すぐに祖母に居場所を伝えたそうです。

 その青年の証言もあって祖父は解放され、命からがら帰国できたのは終戦の2年後だったそうです。満州での特権階級の生活から敗戦で一挙に命の危険に晒される貧困生活に陥いる中、実は母たちは中国の大きな歴史の転換点に立ち会い、中国が何千年もの間、殺戮と闘争で支配者を変えてきた歴史を身を持って体験した瞬間でした。

 祖父母や母からの話、さらに私自身の研究や実体験から見えてくるものは、彼らの観念の中心は「支配」にあることです。支配する者が全てを得ることができ、支配されるものは不当な扱いを受けるというもの。支配する者にはその利権に群がる人々がいる一方、統治力がなくなれば見捨てるのも早いということです。

 5000年の歴史で漢民族に叩き込まれているのは「支配するか、されるか」の強い観念だと私は見ています。その強い観念が世界にも向けられ、世界は米国が支配することで最も大きな利権を得ていると映り、中華思想によって世界を支配するのが中国共産党の天命だと考えているのでしょう。

 大陸は往々にして支配するか、されるかの歴史です。欧州大陸の歴史もまさにそうで、1000年間の歴史を見ても各国の国の形は激しく変化していて領土争いが絶えなかったことを表しています。しかし、20世紀の2つの大戦、さらには東西冷戦を経験する中、支配するかされるかという考えの野蛮さに気づき、その観念は薄れています。

 無論、日本も中国の1部を支配していた時代があり、中国人に屈辱的な経験をさせたのは事実です。明治維新後の、欧米列強の帝国主義に学んだのは支配する者が全てを得るという観念だったことは間違いありません。ただ、それは日本には苦い経験として残りました。

 結局、ロシアと中国だけが支配するかされるかの野蛮な観念に取りつかれたままで、共存して繁栄するという価値観がないのが現状でしょう。自由と民主主義の価値観を持つ陣営と権威主義国家の対立は、実は助け合い共存する価値観と支配者が自らの正当化のために歴史の改ざんも厭わない非文明的で野蛮な観念を持つ勢力との戦いということもいえるでしょう。

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