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 東京五輪の最中、スポーツ心理学の国際比較はビジネスにも役立つことが少なくありません。中でもメダルを獲得した選手のコメント、その選手を紹介するメディアのアプローチには国によって大きな違いがあることに気づきます。これはグローバル・リーダーシップやマネジメントにも大いに参考になることです。

 日本は57年前の東京五輪の時に女子バレーの大松監督の過酷な練習と根性論が注目された一方、その弊害や結果に繋がらない側面が批判され、科学重視の欧米型トレーニングが重視されるようになりました。さらに競技に参加した選手が一様にいうのは「試合を楽しめた」という言葉で、楽しめることが最大の能力を発揮できるというスポーツ心理学はすっかり定着しています。

 無論、57年前に注目された大松監督の根性論も、その神髄が受け継がれたわけでなく、結果に対するコミットメントが抜け落ちていたことや、企業戦士の中程度の能力開発に重きが置かれていた高度成長期が重なり、集団主義で能力の個人差がまったく無視された事情もありました。

 バブルが弾けた1990年以降、日本は集団教育、集団訓練の弊害から自主性、創造性、結果へのコミットメントが重視され、今日に至っています。同時に選手のモチベーションから57年前にあった愛国心は姿を消し、国を背負って戦うようなコメントはなくなり、個人として楽しめたかが強調されています。

 そもそも、これは文化の問題であり、プロセス重視の仏教と結果重視のキリスト教の精神文化の違いも影響しているのは明白です。「人生は修行」という仏教思想が日本人の血の中に深く流れているので、メダルを取った選手の苦労話を日本人は好みます。「苦労は買ってでもしろ」といわれる所以です。

 ところが、生き残ることが農業文化よりはるかに厳しい狩猟文化の欧米では、苦労話は中心的テーマではなく、結果が全てです。結果は良くないけれど、プロセスに学ぶものが大きいと呑気なことはいっていられないほど競争も生き延びること自体も厳しい環境です。

 それに砂漠の環境の中で、自分が信じる信仰や価値観を前面に出してきたキリスト教文明は、闘いの歴史であり、信念を貫くことが重視されてきました。理想的指導者像は旧約聖書に出てくるモーゼのような人物に求められ、血で血を洗う闘争の歴史の中で生きてきたために個人個人の競争心の強さは東洋人にはないものがあります。

 個人主義の国である米国にはナンバー1教育があります。小学校の時から「お前はナンバー1だ」といわれながら育ちます。結果、自分こそナンバー1という意識が非常に強い人間が生まれます。会社でもナンバー1意識はモチベーションを高める効果があるとされています。

 結果へのコミットメントも個人が中心なので、その影響が日本のスポーツ界に浸透し「競技を楽しめる」という言葉の連発にも繋がっているといえそうです。一方で地道な努力や悔しい思いを抱えて練習に取り組んだなどの苦労話への共感の根底には仏教的精神も伺えます。

 しかし、私には日本人が持つ、西洋精神文化にはないもっと重要な精神は、無我、無私だと思っています。実はキリスト教でもイエス・キリストは天国に入れるのは、(無我・無私)の幼子のような人間といっています。個人的な野心を含む自分という意識があってはならないという話です。

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