Olympic-rings-on-a-background-map-of-the-world

 東京オリンピック・パラリンピック(オリパラ)は、コロナ禍の試練の中で始まりました。日本は多分、最後まで責任を持って仕事をやり抜く精神があるので、日々浮上する問題に対処しながら、やり遂げるでしょう。国際オリパラ委員会(IOC)にとっても大きな試練であり、今後のオリパラの在り方に多大な影響を与えることが予想されます。

 残念ながら、すでに浮上している大会の中枢で仕事をする関係者に、人権や差別に関わる過去の問題が浮上し、果たして日本はオリパラ精神が分かっているのか疑問符が投げかけられています。その意味では韓国の大統領が政治的理由で開会式への来日を取りやめたのも、オリパラ精神を大きく逸脱したものでした。

 オリパラは、日頃の政治的対立を「休戦」する1大イベントであり、しばしスポーツを通して人類共生を体感するためのものです。それを露骨に政治的目的を果たせないので来日を取りやめるというのも、オリパラ精神をまったく理解していないもので、来日した選手までも選手村で半日の横断幕を掲げるなど、言語道断な行為です。

 そういう日本も、障がい者へのいじめ、ユダヤ人蔑視発言など、オリパラ精神のコアの価値観に抵触する人材を登用していたことは、恥ずかしいというしかありません。安心・安全というなから、これほど対極にある人選はないでしょう。

 欧米諸国もIOCも、アジアはオリパラ精神からは遠い国であることを印象付けただけでなく、今世界が共有しようとしているSDGs(持続可能な開発目標)や、ESG(環境、社会、ガバナンス)にも違反する内容です。これではコロナ禍に何も学習していないことを露呈したようなものです。

 つまり、世界が今最も努力しようとしている目標どころか、あらゆる差別、人権侵害行為も問題視できない国なのかというイメージが拡がることを私は恐れています。対立と分断は何一ついいものはもたらしません。日本には「和の精神」もあるわけですが、残念ながら善悪の価値観はどこか希薄です。

 日本人が高いモラルを維持できた理由は実は検証されていません。通常は宗教にあるわけですが、アミニズムと八百万の神、神道、仏教、儒教が混在しており、それだけでは日本人のモラルは説明できません。強いて言えば他国ほど侵略戦争での酷い経験をしていないために心の傷が浅いともいえます。

 第二次世界大戦で原爆を落とされましたが、戦後を統治した米国は悪辣な国ではありませんでした。他の全ての先進国がキリスト教圏なのに、日本だけがキリスト教を受け入れずに先進国となり、誠実さや高いモラルの国として知られている稀有な国です。

 しかし、その弱点は自らの歴史が築いた文明を自分で説明できないことです。そんな日本は今回、オリパラ精神を簡単に逸脱してしまいました。それも1年延期され、人選で時間はたっぷりあったはずなのに、十分な検討はなかったというのも呆れた話です。

 それに菅総理が度々口にする「安心・安全」はオリパラのヴィジョンにはなりません。それは二次的な手段であり、安心・安全の対極にある「危険」なオリパラなどありえません。ヴィジョンとは人を引き上げるものです。ロンドン・オリパラは産業革命をダイバーシティでもたらし、弱者との共生を前面に打ち出し、人々の心を高揚させました。

 地球上の全ての人類が直面するコロナ禍でのオリパラは、もっと大きなオリパラ効果が必要です。レジリエンス(回復力)をもたらすスポーツの力を世界が共有するチャンスです。日本はそのレジリエンスを持った国であり、何度転んでも努力で立ち上がれる国のはずです。

 そこに和の精神が加わり、対立や分断を乗り越えて調和する世界の実現に向かって影響力を持つ国であることを示すチャンスです。オリパラの根本理念さえ理解できていないなど論外です。関係者の身体検査で重要なのは純粋な愛国心があるかどうかでしょう。

 サブカルチャー系の人材を表に出してきた組織委員会やNHKは、社会にとって有益なのか有害なのかも見極めず、若者に人気があるだけで採用しているように見えます。たぶん、採用する側もきっと1970年代にゲバ棒を振るっていたような愛国者とは程遠い、反社会的で自己中心的な超内向きの人たちなのでしょう。

 1964年の東京五輪で音楽を担当した古関裕而、黛敏郎、團伊玖磨は、世界に音楽で正面から勝負を仕掛ける作曲家でした。特に個人的な交流のあった團さんは私に「戦後、日本には音楽らしいものが存在しなかった。日本において音楽はどうあるべきかを考え続けてきた」と語っていました。

 團さんも黛さんも当時、40歳の若手の新進気鋭の芸大の同級生でした。彼らの愛国心は非常に強いものがありました。同時に西洋と肩を並べる文化を日本に定着させることに必死でした。今のサブカルチャーにルーツを持つ文化人とは雲泥の差です。

 オリパラの記憶は音楽とともにあるものです。その意味で極めて重要です。果たして團さんたちが目指した世界に誇れる日本になっているのかは、はなはだ疑問ですが、いずれにせよ、今からでも遅くないオリパラの普遍的精神の深い理解と日本の長所を生かした大会にしてほしいものです。

ブログ内関連記事
商業五輪・パラの完全リセット 対立と分断の愚かさに気づく損得度外視のレジェンドを残す意義
消えた五輪・パラのヴィジョン 安心安全は手段であって目的ではないはず復興五輪はどこへ?
聖火走り出した東京五輪・パラ 時代遅れの権威主義を脱し国民の共感で盛り上げられるかが鍵
東京五輪はレジリエンス五輪 震災復興とコロナ禍を抜け出す世界の団結を促す祭典にすべき