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 フランスは今、2015年1月に始まったイスラム過激派の連続するテロが始まる前年秋以降と同じ状況にあります。今回のテロの脅威は、2015年最初のテロである仏風刺週刊紙、シャルリー・エブド本社襲撃テロ裁判が9月に開始し、イスラム教が禁じる予言者ムハンマドの風刺画の是非が問われていることです。

 折しも10月30日から、フランス全土で1か月の外出禁止措置が実施されるフランスという点では、テロは起きにくいかもしれませんが、1か月後のクリスマス時期以降に起きる可能性は十分ありえます。

 なぜなら、マクロン仏大統領は9月に「表現の自由は宗教の冒涜も許される」「笑いは大切だ」と発言し、さらにムハンマドの風刺画を授業中に見せ、10月16日に18歳のチェチェン人に斬首された中学校教師、サミュエル・パテュさんを表現の自由の殉教者に祭り上げ、国葬にしたことです。

 そこでも大統領は「今後も風刺画を支持し、表現の自由を守り抜く」と発言し、イスラム教徒に火を点けているからです。

 この事件で蜂の巣を突ついたような議論が拡がる中、事件後、パティさんの行為を批判する側の発言をネットで拡散していたパリ北郊外のパンタンのモスクが行政命令で閉鎖され、在仏のイスラム指導者のイマムやユダヤ教指導者ラビの代表者は、パティさんの追悼を行ない、立場を明確にする必要がありました。

 ところが、今からもフランスで生きていかなければならないイスラム教徒は、パティさんへの非難に口をつぐんでいるのに対して、トルコのエルドアン大統領は「マクロン大統領は精神治療が必要だ」と公式の場で2度も語り、中東イスラム圏では仏製品に不買運動が拡がっています。

 無論、フランス国内でも不遇な移民系の若者でイスラム聖戦主義に傾倒する者は、ネット上で公にパティさんを批判すれば警察が飛んでくるので、密かに密室でテロを計画していることでしょう。

 このブログで宗教界の反応は紹介しましたが、概ねテロは許されざる行為と批判しながらも、ある宗教が禁じることを完全に無視するだけでなく、冒涜する行為は表現の自由とは相いれない行為と批判する声が圧倒的です。

 特にシャルリー・エブド紙の風刺画は確信犯で、ムハンマドを同性愛者に見立てたり、裸でグロテクスな姿にしたり、イスラム教の教義の核心を馬鹿にする挑戦的なものです。人の信仰を上から目線で見る姿勢は、実は2015年に殺害されたシャルリー・エブドの漫画家や編集部員のほとんどが無神論者でアナーキストだったという事情もあります。

 そのためもあって、購読者数は少なく、とてもフランスを代表するメディアとはいえないものです。これまで何度も編集部は襲撃を受けており、2015年1月が初めての襲撃ではありませんでした。

 多くのメディアが表現の自由の正当性と過激主義への批判の論調で埋めつくされる中、保守系全国紙、ル・フィガロが掲載した右派・国民連合のマリーヌ・ルペン党首の姪で元同党の国民議会議員だったマリオン・マレシャル・ルペン氏の「法や政教分離は、イスラム過激主義と闘うには不十分」「過激主義は共和国の価値ではなく、フランスそのものへの挑戦だ」と指摘したのは興味深いものでした。

 彼女は「フランス国内のカトリック、プロテスタント教会、ユダヤ教、仏教は社会的問題を起こしていない」「問題はイスラム根本主義者が、フランスをイスラム化し、支配する明確な動機を持っていることだ」と述べ、極左を含め、フランスに脅威を与える勢力とどう闘うかが問題で「表現の自由や政教分離は問題のすり替えだ」と批判しました。

 共産主義と長年闘ってきた国民連合(前進は国民戦線)は、フランスを根底から変える共産化もイスラム化も許してはならないという立場です。これは民主主義の否定であり、中国のような共産党一党独裁かイランのようなイスラム国家になることを意味し、日本人もそれは拒否するでしょう。

 つまり、過激な共産主義や無政府主義を標榜し、完全な無宗教、唯物主義の価値観を持つ国をめざす勢力が、表現の自由を道具として狡猾に利用しながら、逆の考えで国家支配の志を持つイスラム教根本主義を排斥しているのが現実だということです。

 殺害された仏教師が、何をどこまで理解していたかは今となっては分かりません。歴史、地理の教師だったので、普通の人よりは深く理解していたかもしれませんが、日本でも歴史教師に左翼が多いようにパティさんもそうだった可能性は極めて高いと思われます。

 パティさんがムハンマドのグロテスクな風刺画は見せても、イエス・キリストの風刺画を見せないのは、イスラム教への嫌悪があったからでしょう。表現の自由は、信教の自由や言論の自由を基本とするものであるなら、平等とはいえないものでしょう。

 「表現の自由や政教分離は問題のすり替えだ」というルペン氏の指摘は、表現の自由や政教分離ではイスラム過激主義とは戦えないということでもあり、適切な指摘のように思われます。

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