The_Red_Tower_by_Giorgio_de_Chirico
      The Red Tower (1913), Peggy Guggenheim Collection

 静寂の広場を駆け抜ける少女、ロボット化したような人間、卓越した古典的絵画技法で描かれた自画像など、100年前に活躍したジュルジョ・デ・キリコの作品は、今見ても斬新です。同時に、20世紀の現代の美術を理解する上で大きな存在であることは間違いありません。

 キリコの作品を今見ると、まるでバンド・デシネ(西洋漫画)に出てくる町の風景や人間に見えたりするのは私の錯覚でしょうか。

 現在、パリのオランジュリー美術館で開催されている「ジョルジョ・デ・キリコ 形而上絵画」展(12月14日まで)は、20世紀の西洋美術の葛藤と限界を知る上で大きな意味があるのだと思います。マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォーなどが、キリコの存在なしには語れない作家たちです。

 今となっては、美術に持ち込まれた哲学的な思考である形而上学は、いったいに何をいっているのかと戸惑うばかりかと思いますが、簡単にいえば、19世紀の産業革命と科学の圧倒的インパクトの中、それまで支配的だったキリスト教的価値観を離れ、新たなアイデンティティを模索する時代に生まれた一つの芸術運動だったといえそうです。

 王宮や権力者に仕える職人画家が、独立した芸術家に移行することで、自分自身を掘り下げざるを得なくなった中で、キリコは一つの方向性を示した(といっても若い時の話ですが)といえます。形而上学、唯物論、象徴主義などは、一時、ヨーロッパで一世を風靡したシュルレアリスムを産みました。

 たとえば、形而上学と唯物論は対立するものとして扱われ、形而上は形を超えたものである心、観念、感情を重視し、唯物論は人間は猿から進化し、土から生まれて土に帰るだけで魂は存在しないとして心や観念は軽視する立場です。

 ところが両方ともキリスト教的世界観から離れて真理を探究するという姿勢では同じで、科学性を重視しながら宗教を否定的にとらえながら、普遍性という観念は共有しています。話は多少難しくなりましたが、20世紀に起きたさまざまな美術運動は、そんな葛藤の中にあったことは確かです。

de Chirico self-portrait
      デ・キリコの自画像 1967年作

 しかし、結局、美しいものを素直に美しいものとして描いた印象派の絵画は、21世紀になっても評価は安定していますが、思想的、観念的な美術運動は、作品の前で戸惑いや不安、不快感を与え、解説なしに鑑賞できないものになっています。

 プロの芸術家や評論家だけにしか理解できない美術作品が果たして歴史の風雨に晒された時、生き延びられるかは甚だ疑問です。ベルリンの国立東洋美術館の館長だったヴィリバルト・ファイト氏は、私に「現代美術の作家は饒舌すぎる。言葉で解説しなければ理解されない作品を芸術と呼べるのだろうか」といったことを思い起こします。

 それはともかく、キリコが古典的絵画を回顧するような作品が評価されなかったと経緯はともかく、20世紀にあれだけの卓越した描写力を持つ画家はそうはいなかったでしょう。キリコの真価は別の所にあるのかもしれません。

 100年後の今、当時の芸術家たちのエキサイティングな葛藤はノスタルジーになってしまった感もあります。今は全てにおいて重いテーマ、難解なものは嫌われ、感性ではなく感覚だけが先行する一過性の作品が持て囃され、芸術にとっては不幸な時代かもしれません。

 でも、そんな結果をもたらしたのも20世紀の観念的、思想的芸術のせいという見方もできます。ポストコロナの芸術はどこに向かうのか、興味深いところです。

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