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 最近、日本の1人当たりの国内総生産(GDP)や労働生産性が韓国を下回り、もはや先進7カ国(G7)のメンバーである資格もないという指摘をする学者も日本に出てきました。ただでさえ自信をなくしているゆとり世代の若者が聞けば「やっぱり日本は駄目なんだ」と思うしかない指摘です。

 たとえば、日本の一人当たりのGDPは、経済協力開発機構(OECD)の2018年の統計では、OECD平均値よりも低く、アメリカの66%しかなく、アイルランドの約半分、アジアでは韓国にも抜かれているといいます。

 労働生産性に至っては、OECD平均値の78%しかなく、アメリカの58%、韓国に抜かれているだけでなく、すでにシリアと戦争中のトルコや財政危機に見舞われたギリシャにも抜かれ、旧東欧と並ぶ有り様だというわけです。それだけ聞けば背筋の寒くなる話です。

 しかし、そもそもGDPや労働生産性は経済的豊かさや経済力を表す指標としては、極めて限定的なものです。たとえば、1人当たりのGDPが5位のアメリカは1位のルクセンブルクの50%超しかないありませんが、アメリカの経済力を疑う人はいません。労働生産性でトップのアイルランドと3位のアメリカをビジネス効率の高さで比較するのも意味はありません。

 人口60万人しかいないルクセンブルクが、地の利を生かして世界中の金融機関を誘致した結果のGDPの高さは参考になりません。中立国の強みで、租税回避や、かつて犯罪者の金まで預かっていたスイスの上位ランキングも世界の模範とはいえません。

 それより、たとえば、OECDが取り組む国民の幸福度指数は、私にとっては、より重要な指数と考えています。たとえ中国のように世界を支配するような勢いで経済成長した国から、なぜ、アメリカやカナダに移民する人が減らないかというのは、人権や不平等、言論弾圧、貧富の差などがあるからです。

 日本も自転車操業で、過労死をもたらす過重労働、長時間労働、旧態依然とした会社中心主義では、幸福度は高いとはいえません。会社側が本人との話し合いなしに家族に犠牲を強いる地方人事、海外人事を平気でしていることも先進国の中では立派な人権侵害です。

 つまり、一国の経済規模が拡大することと,われわれの生活が豊かになることはイコールではないということです。会社が不正会計など違法行為を隠蔽しながら利益を上げてもGDP は増えます。GDPは経済活動の性質にかかわらず、全ての活動を記録するからです。その一方で女性の家事など無償活動は記録されません。

 国民一人一人の幸福度を測ろうとするならば,当然、負の活動の成果は総計から差し引かれるはずです。日本が気にしている韓国の成長についても、一部の財閥企業が利益を上げているだけで、大学を出ても就職できない若者が山のようにいます。彼らがベトナムやフィリピンあたりに出稼ぎに出ている実態は日本では知られていません。

 GDPの数字で経済分析しようとする学者やエコノミストは、人間の経済活動の目的は、そもそも何かという視点が欠けています。30年前、パリのOECD本部に日本の外務省から出稿していた高校の同級生にパリで会ったと時、彼はフランスについて「これだけ人が働かなくて、世界5位前後の経済力を維持しているのに驚いた」といい「先進国とは何かを考えさせられた」といっていました。

 日本が一人当たりのGDPや生産性が低いことについて真摯に受け止める部分もありでしょうが、それが正確な現状を表しているとは到底いえません。私は個人的には日本は成熟社会に入る段階で、戦後掲げたアメリカに追いつけ追い越せ的な目標を根底からリセットできなかったことが大きいと見ています。

 結局は、その国の健全度は心の問題であり、豊かさとは何かをどこまで追求できるかだと思います。いつまでも下僕根性で会社に仕え、上司の顔色を伺い、超受け身で一度しかない人生を組織に捧げているようでは、国として次の段階に入れないでしょう。ライフワークバランスを追求しなければ生産性も上がりません。

 体感する幸福度こそが、豊かさの指標だとすれば、他の国から技術を盗み、人を搾取し、嘘の数字を挙げ、違法行為によってGDPをあげる国など、日本は気になする必要はないはずです。

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