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         ライプチィヒのバッハゆかりのトーマス教会

 ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日の3カ月前、私はバッハ、リスト、メンデルスゾーンという東ドイツゆかりの大作曲家の足跡を辿る取材で東ドイツにいました。ハンブルクから列車で入り、ライプツィヒ、ワイマール、アイゼナッハと辿り、そのまま西ドイツに戻りました。

 ライプツィヒで合流した作曲家の故團伊玖磨氏は丁度、同市で世界的に有名なコンサートホール、ゲバンドハウスを拠点とするゲバントハウス管弦楽団の指揮者だったクルト・マズア氏と会うためにライプツィヒに滞在していました。そのマズア氏は團氏に「ライプツィヒの電話普及率は16%、その全てが当局によって盗聴されている」と嘆いていたそうです。

 実は、それから1カ月後、東ドイツの民主化のリーダーでもあったマズア氏は、團氏と会った2カ月後の10月9日、民主化を求めるライプツィヒの7万人が参加した月曜デモにおいて重要な役割を果たしました。彼はデモ隊に銃口を向ける秘密警察と軍隊に対して、無血の平和メッセージを発し、流血を回避させました。

 私が東ドイツを旅していた時期は、どんな時期だったかといえば、1989年6月に起きたポーランドを皮切りに起きた東欧革命勃発が東ドイツにも波及し、民主化を求める民衆の抗議活動はエスカレートし、私がいた夏の休暇シーズン、多くの東ドイツ国民が休暇を利用してハンガリーやチェコスロバキアへ出国、ハンガリーは自国内の東ドイツ人をオーストリア経由で西ドイツへ出国させていた時期でした。

 ベルリンの壁崩壊までの数カ月は、不思議な現象が次々と起きた時期でした。東ドイツ国家評議会のメンバーらが、東ドイツ国民の西ドイツへの大量流出に危機感を抱く中、筋金入りの共産主義者ホーネッカー評議会議長は意に介せず、出て行きたい者は出て行けばいいという態度でした。

 そのホーネッカーと建国40周年記念式典で東ドイツ訪問中のソ連のゴルバチョフが会ったのは10月7日。ペレストロイカを進めるゴルバチョフは東欧革命を意に介さないホーネッカーに呆れ、軽蔑のシグナルを評議会委員たちに送り、同日帰国、ゴルバチョフの意向を踏まえ、ホーネッカーは10月17日に解任されました。

 ライプツィヒの7万人の抗議デモは、ゴルバチョフが引導を渡して帰国した2日後の出来事。ホーネッカーが求心力を失う中、元々の東ドイツの体制では抗議デモ隊に対して秘密警察や軍が武力鎮圧していたはずですが、折しも同年6月、中国で起きた天安門事件でデモ隊を武力鎮圧したことへの国際的批判も高まっていたこともあり、マズアのメッセージをホーネッカーは受け入れました。

 マズア氏はその後のライプツィヒの大規模な抗議集会で中心的役割を果し、事態収集に乗り出したホーネッカーの後任のクレンツも助けを求めにクレムリンに行きましたが、ゴルバチョフから突き放され、結果、西ドイツへの行くビザ発給問題でもゴルバチョフが沈黙する中、国境管理責任者が自分の判断で国境を開けてしまったのが11月9日でした。

 当時、取材のためにライプツィヒに持ち込んだスウェーデン製の中判カメラ、ハッセルブラッドのカールツアイスのレンズはもともと東ドイツに由来しています。それでもライプツィヒの一般市民がハッセルブラッドを見る機会はないために、街中でカメラを構えると人がカメラ見たさに寄ってくる状況でした。

 ワイマールのリストの家では職員と話す中、リストと縁の深いワーグナーが作った西ドイツに位置するバイロイトの祝祭歌劇場の話が出て、ワイマールから90キロのバイロイトに「行きたくてもいけない」と悲しい顔をされたのを覚えています。

 バッハの家のあるアイゼナッハでは、記念館を管理する役人から撮影費を要求され、それも彼女が提示した金額は高額の上に、領収書は半額しか書かないというものでした。つまり半分は彼女が私的に着服する意図があったからで、共産党の役人の腐敗を目の前で見る経験をしました。

 しかし、中国と違い、東ドイツは分断期に文化交流を辞めることはありませんでした。ゲバントハウスのコンサートには、西ドイツや海外からの客が来ており、ミンクのコートをまとった西側の富裕層を冷たいソーセージを食べていた貧しいライプツィヒ市民は見ていたということです。

 バッハやメンデルスゾーンゆかりのライプツィヒ、リストやゲーテ、シラーゆかりのワイマール、バッハゆかりのアイゼナッハを、たとえ彼らが共産主義理念とは合わないとしても重要な観光資源として保存管理していました。マズア氏は東西冷戦期にも西側で活躍し、最後の妻は日本人でした。

 ベルリンの壁をこじ開けた中心人物が、文化人であり、芸術交流が結果を生んだともいえる経緯を私は目の当たりにしました。文化交流は政治対立の中では虚しいといわれることも多いのですが、ベルリンの壁に関していえば、芸術は大きな役割を果たしたといえそうです。

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