Europe-Brexit

 交渉術の一つに「タイムプレッシャー」というのがあります。デッドラインや帰国する飛行機の出発時間などをちらつかせ、相手の合意を急がせ、合意後に相手が油断したスキに最も重要な合意点を入れ込むというものです。

 英国のジョンソン首相は、就任後70日して、ようやくメイ首相が欧州連合(EU)との間で合意した離脱協定案に替わる代替案をEUに示しました。離脱期限1カ月を切った段階です。それまでは英国内で夏休み明けに議会を強引に休会し、審議させないようにしましたが、司法に違憲とされ、誰もが代替案もなしに首相になったのかと呆れられていました。

 とにかく、何があっても離脱するの一点張りで、EU側としては代替案の提示がなければ、再検討することもできない状態でした。今月17日からEU首脳会議が開かれることは分かっているので、その時点で代替案が承認されなければ、合意なき離脱になるか、総選挙するか、再度の国民投票するか、あるいは再度離脱期限を延期するか、誰も予想がつきません。

 では、ジョンソン氏が70日間も代替案を出さなかった理由は何かということです。考えられることは、EU側に考慮の時間を与えないことにあるとしか考えられません。つまり、新提案を飲むか、合意なき離脱を受け入れるかのプレッシャーの中で、時間切れを恐れて代替項目を受け入れさせる戦術です。

 実は、メイ首相が取り付けた離脱合意案は、多くの部分で合意を積み上げてきました。決定的な問題は、英国がEUの関税同盟に残ることになる英領北アイルランドとアイルランドの国境問題で、いわゆるバックストップ問題です。

 完全主権を取り戻すことを目的とする英国の離脱強硬派にとっては、移行期間に国境問題を解決するまで、関税同盟に留まれば、いつまでも完全離脱はできないということで、絶対受け入れられないポイントです。つまり、今回の代替案は、他の多くの合意内容に大きな修正はなく、ジョンソン氏がめざす最重要事項をタイムプレッシャーを掛けてEUに合意させようとしているように見えます。

 ユンケル欧州委員長は、代替案が出たことを歓迎すると共に「さらに取り組む必要がある問題点がまだ幾つかある」と述べ、バルニエEU首席交渉官も「進展はあったが、まだやるべき仕事は多い」との見解を示し、17日までに実務者レベルで集中協議するとしています。

 国内では国会審議はさせないようにし、代替案はギリギリになって提示するジョンソン氏の交渉戦略は、明らかに身内にも相手にも時間を与えないのが基本といえそうです。そこには日本ではあまり報じられない、英領北アイルランドの深刻な爆弾も仕込まれています。

 それはハード・ボーダーがアイルランド国境沿いにできれば、北アイルランド紛争が再燃する可能性が高いことです。そのため、代替案は1998年4月10日にイギリスとアイルランドの間で結ばれた和平合意であるベルファスト合意を基本に置くという一筆が入っています。

 基本的には代替案は、農畜産物を含む製品貿易について、アイルランド島全体を規制上の単一領域とし、北アイルランドが今後もEUの規制に従うことで国境での検査を不要にするというもです。これについては、移行期間中に北アイルランドの自治政府および議会の承認を得た上で実施し、その後も4年ごとに継続の是非について承認を得るとしています。

 一方、技術的には北アイルランドは英本土と共にEU関税同盟を離脱するため、アイルランドとの貿易では一定の通関検査が必要になるので、輸出入業者の事業所またはサプライチェーンのいずれかの段階で行い、国境での検査は回避するとしています。ところが通関手続きについては、移行期間中に「柔軟かつクリエイティブ」な解決策を見出し、現行ルールを改定・簡素化するとあり、曖昧です。

 代替案をベルファスト合意を念頭に置いているのは、英領北アイルランドが英本島と分離されることは、あくまで北アイルランドと英本島の一体性を最重視するユニオニストの怒りを買うことが念頭にあるからです。ベルファスト合意に関わったアメリカのペロシ下院議長は、北アイルランド紛争を再燃させるようなブレグジットは絶対受け入れないと念を押しています。

 つまり、北アイルランドの国境問題は、関税同盟をめぐる英国の主権の問題だけでなく、紛争再燃という爆弾を抱えているということです。その爆弾をちらつかせながら英国側も妥協する代わりにEUにタイムプレッシャーを掛けながら、妥協を迫っている形です。果たして老練なEU政治家が、このどさくさを利用したジョンソン氏の交渉術に乗ってくるかどうかは分かりません。

 2日の英イングランド北部マンチェスターで開かれている与党・保守党の党大会で「EUが英国の妥協案に理解を示すことを期待する」とした上で「この案に代わる選択肢は、合意なき離脱しかない」「われわれはそうした結末への準備が整っている」と言っていますが、この方法で結果を出せるかは不透明です。

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