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 間違いなく日本経済の発展を牽引してきたのは、競争力のある素晴らしい技術を生み出した伝統ある職人文化でした。それは損得勘定を優先する商人文化以上だったといえます。結果、韓国から輸出制限をかけられても、韓国からしか調達できない物はない一方、日本の技術に頼る韓国は悲鳴を上げている状態です。

 しかし、技術大国を支えてきた職人文化は、全てが良かったわけではなく、そのメリットよりデメリットの方が目立つようになりました。徒弟制度を支えるのは儒教の長幼の序であり、より熟練した技術を持つ師匠や先輩を仰ぎ見ながら、彼らに下僕のよう仕え、技術を習得することでした。

 最初に、この伝統を破って急成長した企業の一つ、映像危機、複写機、プリンターのメーカー、キャノンは、1980年代、次々に先進的技術と製品を世に送り、市場を席巻しました。たとえば1990年代初頭、FAX機の開発に関わったキャノンの30歳前後の若い技術者に取材した時「自分の考えたアイディアが製品として採用されたことに興奮した」と言っていました。

 この流れは平均年齢が30歳以下というIT企業に受け継がれ、これまでにない新しい発想や技術が今、莫大な利益をもたらしています。そこには時間の掛かる徒弟制度的な職人文化はなく、短期決戦で次々に現れては消えていくビジネスモデルの洪水の中に、われわれは暮らすようになりました。

 しかし、だからといって職人文化は消えたわけでも必要なくなったわけでもなく、日本企業が生き延びられていられるのは、地味な職人文化によって生み出され、積み重ねられてきた息の長い優れた技術のおかげです。これは今後も大切にしていくべきものでしょう。

 それより問題なのは、アンビションのある若者、大胆な発想、スケールの大きな人間がいなくなったことです。韓国や中国、東南アジア諸国の若者に比べ、気迫がありません。職人文化の前提条件は、自ら師匠の持つ技術を盗み取り、学ぶ主体性とモチベーションの高さです。そのモチベーションがないと手取り足取り教えるしかなく、消耗していきます。

 つまり、前提条件を失った職人文化では、そこに組み込まれる若者も成長できず、ますます萎縮してしまう現象が起きているわけです。日本の大企業のグローバル研修を担当して感じるのは、主体性のなさであり、組織への従順、村社会のルールにいかに自分を合わせるかという精神です。

 無論、この精神は農耕文化につきもので新しいものではありません。しかし、組織の中で主体性を発揮することは、周囲に自分を合わせるより重要です。主体性のない個人の協調性は、組織に逆にリスクをもたらすものです。前提条件を失った職人文化は形骸化し、組織に脆弱性を与えているのが今の日本企業といえるかもしれません。

 政治も同じで、小泉進次郎環境大臣がニューヨークの国連総会に合わせて開かれた環境関連の会合で「政治にはさまざまな問題があって時に退屈だが、気候変動のような大きな問題への取り組みは、楽しく、かっこよく、そしてセクシーでもあるべきだ」と発言したことが話題になっています。

 特に「セクシー」という言葉が人間の生命に関わる深刻な問題に使われたことが批判される一方、コンサル業界でユニークで魅力的なアイディアを形容する言葉として普通に使われているのを、小泉氏はその知識があって使っているだけという指摘もあります。

 しかし、欧米のジャーナリストが聞けば「では、セクシーな具体策を持っているのか」と理解するのが当然の流れですが、それはないので「就任して間もないので」とみっともない答弁をして初の国際舞台で恥を掻いた格好です。それにセクシーはビジネスの世界で使うもので政治の世界では、別の宗教上の意味もあるので使われません。

 欧米のリーダーが日本のリーダーと違うのは、ヴィジョンやコンセプトといった方向性を決めるのが彼らの職務で、小手先の技術を語ることではありません。小泉氏は日本の環境政策の方向性、ヴィジョンさえ語れば、批判はされなかったのでしょうが、それも語れなかったということです。

 私が答弁するとすれば「東洋には人間は自然の一部という世界観があるので、自然との共存という観点で環境問題は当然取り組みべきものだと考えている。残念ながら日本も戦後、経済優先で産業化に走り、環境破壊してきたが、今、日本人はその自然との調和の精神に立ち返る時だと考えている。自然との共存が困難なものは排除していきたい」と答えたでしょう。

 彼は政治家になって以来、雑巾がけという言葉を何度も使っています。まさに政治の世界も経験重視の職人文化だと理解しているからでしょう。ところが日本の政治家には官僚が考えるような技術的なことを知らないだけでなく、ヴィジョンもない場合が多く、大臣になることが目的化しています。

 小泉氏は、雑巾がけ途上で何を学んだのでしょうか。環境問題にヴィジョンや熱い思いがないのであれば、大臣になる資格はないはずです。セクシーなアイディアを語ることができないだけでなく、ヴィジョンも国連までいって語れないのは、どこを向いて政治家をしているのかということになります。

 ここにも職人文化の形骸化と、その弊害が見えています。自分で自ら学び、考え抜くことの重要さが問われているように思います。

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