フランスに長い私に対して日本の友人たちは「フランスは最近、大変そうですね」といわれることが多い。それは、この数年連続して起きる大規模なテロや黄色いベスト運動を指しているわけですが、確かに花の都、芸術の都といわれるパリのイメージは「受難のパリ」に変貌しています。

 カトリック信者にとって復活祭前の1週間は聖なる週と呼ばれ、パリのノートルダム大聖堂の大規模火災は、その聖なる週初日に起きました。火災が鎮火した翌16日には、フランスの大企業ケリングの会長兼CEO、フランソワ・アンリ・ピノー氏が大聖堂の修復に1億ユーロ(約126億円)を寄付することを表明し、フランスのみならず、カトリック教徒の有無を問わず、世界に寄付の輪が拡がっている。

 フランスのカトリック系日刊紙、ラ・クロワは「聖なる週は大聖堂の再建計画に集中している」と報じています。信仰者の受け止めは一般人とは違います。今回崩落した尖塔のまわりに設置されていたイエス・キリストの使徒と4人の伝道者の像は先週、修復工事のために撤去され、助かりました。

 尖塔が崩れ落ち、教会の真ん中が、まるで爆撃を受けたように穴が開き、火が聖堂内に拡がる中、信徒には深い意味を持つ多くの貴重な美術品は消防士たちの手で根こそぎ運び出され、聖物のイエスのいばらの冠も無事でした。8,000本のパイプで構成されるパイプオルガンも大丈夫とのことで、貴重なステンドグラスも生き残り、煙の被害の方が深刻といわれています。

 ラ・クロワ紙は「立ち入り禁止のテープの向うに、聖堂の白い外陣は誇らしげに建ち、動揺する人々を安心させている」と書いています。カトリック信徒にとっての奇跡は、建物自体が倒壊を免れたことです。

 無論、すでにリエステール仏文化相が火災が建物の躯体に脆弱性を与えたことも認めていますが、再建には前向きです。13世紀に完成したゴシック建築の至宝、ノートルダム大聖堂が火事に見舞われたのは、今回が初めてではありませんが、私は教会再建の情熱がどこまで続くか注目しています。

 というのもフランスの大聖堂の多くは、歴史的に火災だけでなく、戦争による破壊、大革命での荒廃など、幾多の試練を経験してきているからです。有名なシャルトルの大聖堂しかりであり、数百年の間に修復されたり、建て替えられたりしているのが大聖堂の歴史です。

 そして再建を可能にしたのは、人々の想像を絶する強い信仰でした。金のない者は自ら肉体労働を買って出て無料奉仕し、気の遠くなるような長い期間と莫大な費用を費やして修復を繰り返してきたのが聖堂の歴史です。なんど破壊されても再び起き上がる聖堂は信仰の証なわけです。

 では、今の時代にそんな信仰があるのかということです。自分たちは食べられなくても聖堂は再建するという優先順位は今は皆無です。歴史文化遺産としての価値は認められても、信仰の対象として、強い再建の意思を示すパリ市民あるいはフランス人はどれくらいいるのかという話です。フランスは現在、ヨーロッパ諸国の中で最も人々が教会に通わない国といわれています。

 大火災を前にして悲嘆にくれるパリ市民へのインタビューでも、ショックは語っても、神や信仰を語る人は皆無でした。無論、政教分離のライシテの原則から、カトリック信仰を全面に出した報道は控えられているのも確かです。しかし、そのライシテのせいでカトリック教徒は社会の隅に追いやられました。

 専門家たちから何度もノートルダム大聖堂の老朽化が指摘され、大規模修復工事の必要性が指摘されてきました。しかし、政府は費用の捻出に消極的でした。なぜなら、まず、ライシテの原則から、かつては国を支配していたカトリック教会は、今は単なる1宗教団体に過ぎず、宗教法人というカテゴリーを置かないフランスでは、文化活動を行うアソシアシオン(協会)でしかありません。

 制度的にはその辺にある新興宗教と同じ扱いで、そこに歴史遺産、文化遺産としての国家の支出が許されていますが、たとえばカトリック教会に偏った支出をすれば、すぐにフランス第2に宗教のイスラム教団体が文句を言います。実際、私がインタビューした在仏イスラム指導者は政府への不満を爆発させていました。

 ノートルダム大聖堂は、複数の機関や組織が運営に関与しており、修復工事は簡単ではないとすでに指摘されています。年間、信徒を含む2,000万人の人々が国内外から訪れる大聖堂は政府もパリ市も無視できませんが、修復費の捻出や関与する人間の選出は複雑です。

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 1163年にノートルダム大聖堂の礎となった最初の石が残されていますが、パリの出発点となったシテ島には、聖エティエンヌに捧げられた4世紀の初期キリスト教の教会、メロヴィング朝の教会堂、カロリング朝の大聖堂、ロマネスク様式の大聖堂と、4つの聖堂がすでに建立され、シテ島には一時期、17もの教会があったことが記録されています。

 カトリックの聖職者たちを弾圧したフランス革命で荒廃したノートルダム大聖堂は、“理性の神殿”に改称され、その後は倉庫として使われ、建物が崩壊し始めたために完全な取り壊しの話も浮上した経緯があります。それを救ったのは1804年に皇帝に即位したナポレオン1世や名著『ノートルダム・ド・パリ』を1831年に出版したヴィクトル・ユーゴーでした。

 今回の火災で何度も登場する建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクは、1845年の大掛かりな修復の立役者でした。つまり、大聖堂は時代の移り変わりの中で消滅の危機にも直面したわけですが、その都度、フランス人の心の拠り所として復活した経緯があるということです。

 果たして今回は、どうなのでしょうか。すでに火災は信仰を失ったフランス人への天罰という説も浮上しています。このままではイスラム化する危機にあるフランスを守るために神が試練をお与えになったという人もいます。ヨーロッパの歴史文化遺産のほとんどがキリスト教と関係しており、人々の信仰が生み出した文明であることは否定できません。

 ノートルダム大聖堂の修復はフランス人の手だけでは無理でしょう。事実、ヴェルサイユ宮殿やルーヴル美術館、フォンテンブロー城のメンテナンスには、海外の富豪や企業が貢献しています。しかし、今回は宗教と深く関係しているため、フランス人がどう動くのかが注目されるところです。