ビジネス界を始め、あらゆる分野での人工知能(AI)の活用が現実のものになりつつあります。今まで人間が行ってきた多くの活動をAIが肩代わりすることで、さらに便利が時代が来るといいます。同時に、この人類の未知の領域への恐れも人々は感じています。

 そこで論じられているのがAIができることとできないことの切り分けです。逆に言えば人間にしかできないことを何かということです。たとえば日本では人手不足をAIで補強する動きが加速しています。かつて自動車生産ラインに導入されたロボット型製造機械が、役所やビジネスの現場にも活用される時代に入ったということです。

 今やクリスマスのプレゼントやお年玉代わりにAIが搭載されたおもちゃが登場しています。「ガンシェルジュ ハロ」(15万円)は『機動戦士ガンダム』に関する会話を楽しむためのコミュニケーションロボットで、劇中のマスコットロボット「ハロ」にAI(人工知能)を搭載したロボットです。

 仕事や生活、遊びにAIが導入される時代に突入する中、昨年はパリのグラン・パレ・ナショナルギャルリーで「アーティストとロボット」展(6月9日まで)が開催され、AIを含む科学技術と芸術家の関係を問い直しています。

 AIを搭載したロボットがデッサンし、絵の具で描き、新たな作品を産み出し、さらにそれを複製することも可能にしている現実は、すでに存在しています。同展はさらに絵画だけでなくAIで制作されたインスタレーション、彫刻、音楽、動的オブジェなどの作品が展示されました。

 科学技術は、芸術家の持つユニークな想像力、知性、創造性にとって代わり得るのかという問いかけは今後、深められる必要があります。本来、画家や彫刻家は職人であり、ルネッサンス期にはフェレンツェの工房などで教会や裕福な商人からの注文生産を行い、職人たちが分担して作品を仕上げていました。

Verrocchio,da_Vinci_-_Baptism_of_Christ
レオナルドがヴェロッキオで描いた『キリストの洗礼』1472年-475年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 レオナルド・ダヴィンチもヴェロッキオの工房でドローイング、絵画、彫刻だけでなく、化学、冶金学、金属加工、皮細工、機械工学、木工など、非常に幅広い分野を習得しています。つまり、工房はさまざまな注文に答えるための職人養成学校でもあったわけです。

 無論、レオナルドは、その工房で圧倒的な才能を発揮したことで名を挙げ、独立し、多くの作品受注があり、最後はフランス王フランスワ1世の庇護のもとで製作していました。今の時代にダヴィンチが生きていたら、新し物づきで好きで異常な探求心を持った彼はAIにも飛びついたかもしれません。

 18世紀から始まった産業革命、19世紀には産業化社会と社会構造の変化で職人たちは教会と権力者だけでなく、さまざまな需要に答えることになり、そんな中、19世紀後半に職人の中から芸術家と呼ばれる人々が出てきて、芸術という分野が確立されていきました。

 つまり、職人技術を超えた何かが付加され、それも共同作業ではなく、個人のユニークな才能、個人の持つ唯一無二の世界が高く評価され、芸術の中心になったわけです。つまり、職人の1部が芸術家になって200年の歴史も持っていないということです。

 AIは、この職人の技能的部分を肩代わりできるのではないかといます。職人に求められるのは確かな技術で大量生産に耐えうる技術者ですが、芸術家は世界に一つしか存在しない作品を作るという点で、独自性に意味を持つわけです。

 ところが、最近はデジタル分野で、過去の優れた芸術作品をAIに覚えさせ、それを合作したような作品を、それも数人の共同作業で行う例が、特に日本を中心に登場しています。そこで疑問は、芸術が芸術たる所以となっている無から有を生むこと、唯一無二であることは、どうなるのかということです。

 たとえば、小説分野でも優れた作家の文章表現を可能な限り頭に入れる作家が、それを動員して作品を書いて、文学賞をとった例がありました。それは盗作ではないにしても、その後、その作家の活躍はありませんでした。作家としての個人のモチベーションは低かったのかもしれません。

 私は、表現技術面でAIが肩代わりできたとしても、多くの人が感動し、共感し、長い歴史に耐えうるような芸術作品を生むことにはならないだろうと見ています。多分、それができれば人間が人間たる所以はなくなるかもしれません。

 AIと感情の話も注目されていますが、芸術は合理性から生れるわけではありません。技術には合理性があっても、人間の持つ感情や感性までも全てデータ化できるか、それを作品制作にどう活かすかことが可能なのかといわれれば、私は個人的に不可能と答えたいところです。

 芸術は合理性から生れないし、その時の霊感の働きもあるでしょう。それは愛情が合理的でないのと同じだと思います。今後、人間工学などと合わせ、AIは進化していくでしょうが、それで夫婦の離婚率が減るとか、子供が引き籠もりになるリスクが減るとは思えません。

 それに芸術は作品の制作に向き合う時、時間性や感情の変化とも向き合っており、描く対象物があれば、その相手の変化とも向き合っているわけです。その時間は逆戻りできないものだし、その時に起きる作家が感じるものも変化し、その変化はどんどん過去のものになり、引き返すことはできません。

 AIは人間の創造行為に寄与することはあっても、創造行為そのものを肩代わりできるとは到底思えないというのが私の見方です。それはビジネスの世界でも同じで、今ある最新の車のデザインを50年前に導入したら成功したかは、はなはだ疑問です。私は人間でしかできないものは非常に多いと考えており、またそのはずだと思っています。

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