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 日産のゴーン会長の報酬過少申告、会社の投資資金の私的不正使用容疑による逮捕で、コーポレートガバナンス(企業統治)の問題が指摘されています。長年続いたトップの不正を社外取締役を含む、取締役たちが見抜けなかった(あるいは知らないふりをした)ことで、ガバナンスが機能していなかったことが問題視されているわけです。

 コーポレートガバナンス改革は、安倍政権の経済政策の3本の矢の中核に位置するもので、日本企業が村社会を脱し、世界で信頼される開かれたグローバル企業に転身するために必要不可欠なものです。米ウォールストリートジャーナルは、ゴーン会長逮捕について「今のところ、日本企業の改革を後退させる要因にしか見えない」と指摘しています。

 しかし、これは皮肉な結果というしかありません。まず、日産がルノーや三菱と提携関係を結び、今まで誰も成功したことのない自動車業界でのグローバル企業を築き上げる先頭に立っていたのがゴーン氏だったという点です。自社だけで行き詰まった日産を欧米ビジネス界で超有能といわれたゴーン会長の起用で生き返らせた事実は見逃せません。

 日本企業の生き残りのためのグローバル化戦略で、リーダーシップやマネジメントで最も貢献したはずのゴーン氏の足下で、その要と思われたコーポレートガバナンスが機能しなかったのは、いったいどういうことなのでしょうか。ルノーは推定無罪と会社に損害を与えた証拠がないことを根拠に現時点では会長続投の方針ですが、公益性の高い自動車産業で看過できることなのでしょうか。

 そこで頭をよぎるのが、グローバルビジネスの文化の壁です。今回のゴーン会長不正疑惑で、日本のメディアは、ゴーン流トップ・マネジメントでは「自分の気に入った人間しか起用しない」「命令は絶対的で、反対する人間は排除され、ポジションを追われる」といい、その上意下達の文化、独裁が不正を野放しにした要因のように指摘されています。

 しかし、上意下達は英語ではトップダウンと訳されたりしており、欧米では、ごく普通の意思決定スタイルです。私はこのことで、20年以上前ですが、あるプロジェクトの組織作りでアメリカ人と激しく議論したことがあります。トップリーダーは、自分が信頼でき、気に入った者だけを足下に集めなければ、結果は出せないという彼の主張と正面からぶつかったからです。
  
 しかし、その後、私は世界には様々な統治スタイル、意思決定スタイルがあることに気づき、その背後には、文化がいかに影響しているかを目の当たりにして、文化から読み込む重要性を痛感しました。

 その目で見ると、トップダウンといっても多くの違いが国ごとにあり、ゴーン氏のスタイルは、まさにフランス式だといえます。フランスの意思決定スタイルは、アメリカと違い、中央集権的です。権力がトップに集中し、マクロン大統領が時々いう「決めるのは私だ」という言葉によく現れています。

 部下から意見は聞くが、最終決定はボスが行い、他はそれに絶対服従というわけですが、典型的なトップダウンに見えます。一方、アメリカのトップダウンは、議論の末の最終決定の段階で経営陣はよく挙手で決めたりする姿を見かけます。民主主義的統治といえるものです。できるだけ多くの人が納得することも重要という考えもあります。

 フランスは合議的ではないので、社内で上司の悪口をよく聞きます。部下の意見が反映される機会は少ないといえます。ナポレオンの時代からのリーダー像があり、トップの決定に従順(内心は違っても)に従うことが求められ、時々、不満が爆発してストライキやクーデターが起きたりしています。

 日本のメディアがゴーン会長逮捕を、社内幹部によるクーデターとか下克上と報じているのには「さもありなん」と苦笑しました。実は私は日産でグローバル研修を担当させてもらい、時々、会う機会のある幹部から「決めるのは私だ」という言葉を聞いて、非常に違和感を覚えたことがあります。

 ゴーン氏が持ち込んだものには、結果へのコミットメントなど有効なものもありましたが、リーダーシップでは、悪くいえば、中身を深く理解しないままにスタイルだけが受け継がれ、凶器と化しているものもあったと感じました。その一つがリーダーシップです。

 パワハラ議論でよく登場する上意下達の文化は、実は表面的には欧米から一生懸命持ち込もうとしたトップダウンとよく似ています。しかし、トップダウンの前に優れた専門性を持った人間が集り、議論を尽くす過程があるのが本来のトップダウンで、一方的に権力を奮うのは勘違いです。

 その議論をベースに、後はトップが一人で熟慮して決めるのがフランス式、民主的に決めるのがアメリカ式という最終段階の違いがあるだけです。とはいえ、今の専門性が求められ、複雑で変化の激しいビジネス環境では、一人で熟慮して決めるには限界があり、意思決定には複数で関わるのが一般的です。

 もともと自分の意見を自由に主張し、議論する風土がなく、従順が当たり前の日本に、トップダウンの中央集権的マネジメント手法が持ち込まれたことで、多くの副作用がトップと幹部の間に起きていたことが推察されます。その中で発生したトップの不正、それを支援し、隠蔽した問題も起きたのかもしれません。

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