安部雅延のグローバルワークス Masanobu Abe Global Works

国際ジャーナリスト、グローバル人材育成のプロが体験を踏まえ現在の世界を読み解きグローバルに働く人、これから働く人に必要な知識とスキルを提供。

フリーの国際ジャーナリストで、フランスのビジネススクールで長年教鞭を取り、日産自動車始め多数の大手企業でグローバル人材育成を担当した安部雅延が、国際情勢やグローバルビジネスの最前線を紹介し、豊富な経験を踏まえた独自の視点で世界を読み解くグローバルトーク。

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 今や対人力、コミュニケーション力は、日常生活だけでなく、ビジネスの世界で最も重要とされるテーマです。そのテクニックには質問力、フィードバック、共感などを重視するセオリーがあるわけですが、中でも相手を納得させる技術は中心的テーマです。

 「あの人は話がうまい」、逆に「私は話下手」という表現があります。では歴史を通じた最高の話者は誰なのか。その指標は何かは興味あることです。昔、日本でコピーライタ―という職業が注目され、たしか「宣伝会議」という雑誌で、イエス・キリストは最高のコピーライターだったという特集を読んだことがあります。

 コピーライトは非常に短いフレーズで、端的に物事を言い当て、人の心に印象として残すことです。企業は今でも企業目的などを一行で表現するコピーライトを使用しています。

 イエス・キリストをコピーライターとして持ち出すのは不遜ですが、新約聖書は基本的にイエスがたとえ話で語ったことと行動の記録です。キリスト教神学は後から理論化したもので、イエスは教義を理論的に教えたわけではありません。強いていえば旧約時代に予言されたことに明確に答える話をしていたわけです。

 それより興味深いのは、スタンフォード大学の心理学者ゴードン H. バウワーとミハエル C. クラークが1969年に初めて発見した研究で「人は事実をストーリーで語られると、7倍も記憶しやすい」と言われていることからすると、イエスは2000年前にそれを実践したことです。

 無論、相手が文字も読めない科学的教育を受けてないので物語で語るしかなかったという人もいますが、実はそうではないのです。

 伝えたいことの中身は、相手の知的レベルに関わらず、ストーリー化することで相手は理解を深め、心に記憶されるために、イエスはたとえ話を繰り返したといえます。無論、そのためにイエスの話した内容や、その解釈をめぐって2000年に渡って議論が続き、多くの宗派に分かれていったのも事実です。

 共産主義旋風が吹き荒れた20世紀、その思想の普及に役立ったのは芝居でした。これもストーリーテリングの技術の有効性が生かされたものでした。富の再分配の理論を語るより、「経営者たちのぜいたくな暮らしを見なさい!あなた方は搾取されている」という物語の方が圧倒的に説得力がありました。

 ストーリーテリングの技術は、有益な話をあてに伝えるだけでなく、悪用すれば詐欺にも使われます。リーダーシップでも極めて重要ですが、嘘や作り話をすることで相手をミスリードする武器にも使われます。

 それと説得力を持つストーリーを構築するには、共感は不可欠です。できるだけ多くの人々が共感できるストーリーであることが重要です。イエスの話はローマの圧政で奴隷化し、苦しめられていたユダヤの民衆たちに「私を信じるものは救われ、天国に行ける」と強烈なメッセージを発しました。

 それが全くの嘘だったら、救いを実感することはないので2000年の時を超えて信仰の灯を絶やさないことにはならなかったでしょう。持続可能な救いの実感をもたらしたのはイエスの発した物語が的を得たものだったからに他なりません。

 日本には少ないのですが、韓国にはストーリーテラーのシャーマンが多くいるそうです。無論、普遍性を持った本物は少ないために、大半のシャーマンは死ねば何もなくなるそうです。

 共産主義もまた、ストーリーテラーの猛者で、中国共産党は権力を維持するため、存在を脅かストーリーテラーである宗教を徹底排除しています。つまり、ストーリーテリングは諸刃の剣でもあるわけです。そして多くのストーリーテラーは実践面で不信感を持たれるのも常です。

 厳しい禁欲を説く教祖が女性関係にみだらだったり、社員一人一人の幸せのためにと強調する社長が実は蓄財に忙しかったり、ストーリーテラーは言行一致でないと説得力も持続力もありません。イエスは自ら民衆のために十字架にかかった行為で多くの人々の圧倒的インパクトを与えました。

 つまり、信頼を勝ち取るために語られたストーリーには一貫性が不可欠だということです。一貫性があるからこそ信念も生まれるわけです。創業者が残したメッセージを変えないことは極めて重要です。一貫性がないことは普遍性がないことに繋がります。

 
  

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 パリ在住の画家、黒田アキ氏から「パリのカフェに座って通りを行きかう人を眺めていたら、あっという間に10年が経ったという話を聞いたことがあります。パリは世界中の人々が集まり、かつてはコスモポリタン都市と言われ、今ではダイバーシティを生かす土壌として評価されました。

 ただ、実はダイバーシティといっても、イスラムの価値観まで抱擁する力はなく、今ではイスラム過激派の分離主義が拡散し、フランスが誇っていた多様性による共存にほころびが見えています。そもそも普遍性を追求する1神教には均衡を保つより統合に重心を置く傾向が強く、当然、対立や差別は避けられないともいえます。

 とはいえ世界は多様な文化や価値観の共存に向かっており、どうしたら対立が招く悲劇を避けることができるのかを模索中です。今のところは価値観の異なる国同士でも経済協力で共存は可能ということで、自由主義を掲げる米国は、極端に政治的価値観の異なる中国に経済依存する状況です。

 しかし、現実には対立の方が表面化し、多様性の共存のポジティブ感より、不安や恐怖が広がり、人間が生きるモチベーションに暗い影を落としています。これは世界的現象で、特に若者の間でSNSを通して共感を渇望する動きが加速しているように見えます。

 この現象は人類が経験したことのない領域で、歴史的に見てもネットを通じて国境を越え、今ではAI翻訳で言葉の壁も超え、人間同士が議論したり、シェアしたりする過去にない共感社会が生まれています。とはいえ、共感できない人との交流は避けられるので結果として対立より共存にむかう保証もありません。

 不確定要素が増える一方の世界では、個人の生きるモチベーションを明確化することは何より重要になっているわけですが、働くことだけでなく、画家のゴーギャンが描いた「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という本質的問いかけが必要な時代と言えます。

 最後は、その普遍的問いかけに答えを出していく努力が不安で不確実な時代を乗り切る鍵を握ると私は見ています。私がフランスに移動して学んだことは、常に自分は満足しているのか幸福なのかを問い続ける姿勢です。日本人は満足や幸福を贅沢と結び付け、過分な欲望だとネガティブに考える傾向があります。

 しかし、それは運命に従って過分な欲望は持たず、人生は修業なので忍耐あるのみという人生観ですが、目標が定かでなければ、生きる力にはなりません。

 世界中から人が集まるフランスで、アメリカの留学生たちが口を揃えたように「My ambition is」といい、自分の目標を語りだします。日本人より欧米人の方が目標設定を重視する傾向がある一方、その目標は驚くほど変更されるのも彼らの常です。

 設定した目標の達成に全力を尽くすと言いながら、その目標はいい意味でも悪い意味でも全く違った方向に向かうこともあり、日本人のように律義に目標を守り続けるこだわりもありません。それは時として人間同士の信頼関係にひびを入れることもあります。

 変更の理由は、定めた目標が自分に満足や幸福感をもたらさないことが分かったからと言えます。日本人は忍耐力とすぐ結びつけますが、自分にとっていいことか悪いことを問うことが中心になる欧米人は、目標達成が与える喜びや満足度が非常に高ければ別ですが、それを見出せなければすぐにやめてしまいます。

 日本で近年、若者に対してやりたいことを見つけなさいと言いますが、その一方で、その指標はけっして幸福度や満足度でない場合もあります。そもそも周囲に合わせて調和を保って生きていく教育を受けた多くの日本人が組織と関係なく、個人として幸福を追求する習慣もない現実があります。

 共感時代に重要なことは、より多くの人々に共感を与え、喜びを分かち合うことでしょう。戦争や紛争、限界まで来ている環境問題と課題は山住ですが、すでに別の地平が見えていると言えるでしょう。自分探しを批判する人はいますが、それは日本人が子供の時から自分探しをする習慣が身についていないからでしょう。

 

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 イスラエル・ハマス戦争は人質解放のための4日間の休戦で双方が合意し、この4日間に何も衝突が起きないことを世界が祈っている。双方ともに疑心暗鬼で何も互いを信じるものがない中、もし、どちらかが休戦を破って行動すれば、人質解放はとん挫し、停戦への道筋はさらに見えなくなるだろう。

 今回の双方の合意を仲介したカタールは、今のところサウジなど中東全域から信頼を受けていると予想され、同時に自国内に米軍が駐留しているカタールは、米国に代わって困難な交渉を進めている。だが、カタールも生卵の殻の上を歩いているようなもので、踏み方を間違えれば、殻は破れてしまう。

 バイデン政権は来年の大統領選を控え、人道主義の民主党内からの突き上げ、国内の親パレスチナ抗議デモの拡散でイスラエル支持一辺倒が批判され、イスラエルのネタニヤフ政権に強力な圧力が加わっていることは想像に難くない。周辺国も中東全面戦争は避けたいところで、中露も余裕がない。

 EUは過去の関りからアラブ世界に信頼がなく、米国ほどの経済力も軍事力もない中、ウクライナ戦争支援で手一杯な状況だ。今回は紛争調停役で評価の高いノルウェーを含む欧州諸国は影響力を行使するカードが少ない。むしろ、中東地域の不安定化で難民や不法移民が欧州に流れ込むことを警戒している。

 そこで、このブログにも書いたが日本は調停役としてどうなのかという話だ。アラブが「日本に中東和平の調停役」期待する理由(東洋経済オンライン)

 無論、日本の得意なバランス外交や宥和外交は通じないだろう。だが、日本が戦後の戦争アレルギーから不戦の誓いを立てた一国平和主義は、中国の台湾への脅威で安全保障に考えも岐路に立っている。特に今回はイエメンの反政府勢力が日本郵船が運営する大型船を拿捕され、直接の脅威に晒され、外交政策の大きな変更を迫られている。

 コロナ禍後も止まらないグローバリゼーションの中、日本は日米安保と孤立主義だけでは国を守れない状況にある。特に国際政治で中東を軽視してきた日本は、大きな変更を迫られている。

 

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  ヤルデン・ゴラン・ハイツ・ワイナリーの「ブドウ畑

 かつてイスラエル北部ゴラン高原を取材したことがある。イスラエル政府の案内で同地に入る前に、車の中で「ゴラン高原で身の危険にさらされても自己責任」という書面にサインするよう求められ、緊張が走った。取材してほしいと頼まれて案内されたのに命は保証しないし、自己責任とは随分、調子のいい話とも感じた。

 実はゴラン高原はレバノンとシリアに国境を接した非常に危険な土地だ。レバノンのイラン系の百戦錬磨の過激派組織ヒズボラがイスラエルと対峙しているし、シリアに対してイスラエル軍が空爆する最前線にも位置している。ヨルダン川を見渡せる同地には軍事的監視塔があちこちに見られる。

 シリアとイスラエルが互いに領有権を主張し、今はイスラエル領土になっているが、停戦監視と両軍の兵力引き離し状況を監視する国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)が駐屯している。日本も平和維持部隊(PKO)を派遣した経緯がある。

 ゴラン高原にはヤルデン・ゴラン・ハイツ・ワイナリーで醸造されているゴランワインがあり、世界的にも安定した高い評価を受けている。

 ユダヤ人でない私の前でワイナリーの責任者は「これは世界一神聖なワインだ。なぜなら、ぶどうからビン詰めまで、選民であるユダヤ人しか手に触れてないからで、製造過程で異邦人が触れたら、その場で廃棄している」という説明を受けた。

 日本でも各地方の地酒があり、お国自慢するものだが、聖なるワインというのはレベルが違う。世界に散らばったユダヤ人も祝日に飲んだりする。

 そもそもイスラエルが国際法に違反し、シリアの領地であるゴラン高原を支配し、ワイナリーまで作っていることを国連は容認していない。そこに最近、ユダヤ人入植者が増えており、特に超低党派に属するユダヤ人が武装して入植し、戦う姿勢を見せている。

 ゴラン高原の次に訪問した美しい港町のハイファもゴラン高原からは西に30キロの場所にあり、一見平和に暮らしているが、ヒズボラの攻撃対象でもある。仮にイスラエル北部の国境で本格的戦闘が始まれば、中東全体を巻き込んだ全面戦争になる可能性は高い。

 そもそもイスラエルにとって国際法よりタルムードの方が重要だし、イスラエル民族のために神が準備した土地という意識は強い。そもそもパレスチナ地方は旧約聖書に出てくるカナンと重なる「乳と蜜の流れる場所」と描写され、イスラエル民族にとっての「約束の地」だ。

 モーセの十戒では「人を殺すなかれ」とある一方で、神はカナン人を完全に滅ぼせと命令した。神父や牧師が読みたくない場面で、カナンの族長たちを集めて公開処刑したりしている。ユダヤ人とパレスチナ人の対立は根が深い。ユダヤ人のルーツ(イエス・キリストもユダヤ人)を持つキリスト教徒にとって、パレスチナ人は滅ぼすべき敵という側面もある。

 イエスは、旧約時代に繰り広げられた残虐行為を終わらせるため、全く異なったアプローチを持って登場した。それは「敵を愛し、許しなさい」「右の頬を打たれれば左の頬を出しなさい」と、許しと愛、寛容を説いた訳だが、実際には米9・11テロごのアフガニスタンやイラクへの報復的正義の実行は旧約時代そのもの。

 この旧約的正義を終わらせ、悪を憎んで人を憎まずの精神で多文化共存の道を探るのが21世紀のはず。ところが旧約の呪縛から抜け出せていないことが問題だというべきでしょう。

 

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 フランス北部アラスの高校で10月13日に教師がロシア南部チェチェン系の容疑者に刺殺されたテロは、大きな衝撃を与えた。ウクライナ危機、イスラエル・ハマス戦争と血なまぐさい紛争が地理的に遠くないところで発生し、平和ボケしたフランス人の目を覚ますような事件だった。

 なぜ、平和ボケしているというかと言えば、昨年、ドイツのフランクフルト空港で空港職員の待遇改善のためのデモで、乗り換えができない事態を目撃した。戦争状態のウクライナは目と鼻の先だが、毎日、ウクライナ難民を乗せた列車が到着するフランクフルトやパリでは、難民の移動を妨げるデモが行われている状態は、何を意味するのか考えさせられてしまう。

 フランス政府はアラスの事件を受け、仏政府は国内のテロ警戒水準を最高位に引き上げた。フランスは2015年に起きた大規模テロのようなテロの季節が到来している。理由はイスラエルがハマスせん滅のためにパレスチナ自治区ガザで民間人の殺害を正当化する中、反ユダヤ主義的行為が拡散しているからだ。

 アラスの事件で明らかになったことは、容疑者の20歳のチェチェン人の若者の犯行の動機に、世俗化した社会への憎悪があったことが分かってきたことだ。世俗化という言葉は日本人には聞きなれない言葉だが、人間の日常生活にも影響する1神教では、厳しい戒律を基本守って生活することが求められ、それを軽視するのが世俗化現象だ。

 ユダヤ教やイスラム教のように旧約聖書に示された戒律を信じる人々は、基本的に戒律に従って日常生活を送っている。キリスト教徒もかつては礼拝や告解を守り、慎み深く生きることが求められ、中世時代には戒律を守らない者は地獄に堕ちるという恐怖感が日常生活に浸透していた。

 そんな時代に生きた人が現代社会を見れば、気絶するかもしれない。特にキリスト教徒も世俗化は最も進んでおり、過去の戒律を守る信仰を科学的根拠のない野蛮で非文明的とまで言っている。戒律を重んじるイスラム教徒にとっては、ストレスでしかない。

 無論、大多数のイスラム教徒はテロを起こすような人たちではなく、穏健派で戒律を守りながらも、世俗化した世界を攻撃したりしない。ただ、差別や貧困で人生が困難に陥っているような移民たち、ガザのような天井のない監獄に押し込められた人々は過激思想に染まりやすい。

 世俗化に嫌悪感を抱く彼らの感情は、簡単に否定はできない。2015年にシリア難民を100万人を受け入れたヨーロッパでは、イスラム教で禁じられている女性が肌を見せる行為が当たり前で、できるだけ肌を見せたいファッションも流行っている。

 結果、アラブ移民たちによって多くの強姦事件が起きた。彼らに言わせれば「あの格好は男を誘っているとした見えなかった」と証言している。服従が基本のイスラム教では、女性は男性に服従するのが普通で、イスラム教徒から見れば、みだらとしか見えない服装は売春婦に見える。

 フランスは国として世俗化を推進してきた国だ。フランス革命では多くのカトリック聖職者が殺害され、教会権力を社会から取り除くことが肯定された。政教分離の徹底により、世俗化はさらに進んだ。

 日本人には理解しにくいが、世界で起きる宗教が絡んだ紛争では、世俗化問題は大きな注目点だ。西欧世界の世俗化はリベラル化ともいい、制御されていない。宗教は人が生きる信念であり、アイデンティティなので、その対立は出口を見出すことは難しい。



Portrait de Chiara Fancelli
 ラファエロ作、マグダラのマリアとしてのキアラ・ファンチェッリの肖像、1504年、46 x 34 cm、個人蔵 c DR

 今年10月21日、フランスの収集家らがレオナルド・ダ・ヴィンチの学派のものとされるマグダラのマリアを ロンドンのギャラリーからオンラインで約35,000ユーロ(約560万円)で購入しました。バイヤーはフィレンツェのダ・ヴィンチ専門家、アンナリーザ・ディ・マリアに分析を依頼した結果、どうやら、ラファエロ(1483-1520)の作品の可能性が高いことが分かりました。

 研究者らによると、当時人気のマグダラのマリアを描いたと思われる作品は、ラファエロがモデルとしたペルジーノの妻であるキアラ・ファンチェッリの特徴を備えているとしています。使われた絵の具の科学的分析からもラファエロの作品の可能性が極めて高いとしています。

 もし、ラファエロの作品であれば、オークションにかければ数百万ユーロ(数十億円から数百億円の値が付く可能性もあるとされます。それより、巨匠の作品が500年以上を生き延びてきたことに興味は尽きません。

 ラファエロと言えば、今年4月に明らかになったバチカン宮殿に描かれた最晩年の大作「ミルヴィアン橋の戦い」の習作デッサン「馬に乗った騎手と馬の頭と目」も新たな発見でした。紙に赤チョークで描かれた下絵はラファエロ最晩年の貴重な資料です。

 巨匠が描いたことが証明されただけで、価格が1000倍になったのはレンブラントの「賢者の礼拝」(1628年頃)で、2021年に1万ユーロ(約162万円)の値が付いた作品が今年12月のオークションで1700万ユーロ(約27億円)の値が付くと予想されています。

 今年7月、競売人フランク・ピュオーは、南仏モンペリエきた100キロにあるセヴェンヌ村で個人の財産目録を作成している時に歌川広重(1797-1858)の版画3枚を偶然発見しました。版画は新聞紙にくるまれ食器棚の奥に眠っていました。

 見つかった版画は当時の版画で、作品には版元の魚屋栄吉と蔦屋吉蔵(広栄堂)の名前が記されていた。8月3日にニームのオテル・デ・ヴァントでオークションにかけられ、コレクションは115,000ユーロ(約1850万円)と32,000ユーロ(約515万円)で落札されました。

 ほんの数カ月間で、名画が発掘されるヨーロッパ、作品を残して他界した巨匠たちが、まるで見つけてほしいと導いているような話が数多くあることに興味は尽きません。 

 一方、 今年9月12日、オランダのフローニンゲン美術館は、2020年に盗難にあったフィンセント・ファン・ゴッホの絵画が発見されたと発表しました。この作品は現在アムステルダムのゴッホ美術館にあり、美術館に戻る前に鑑定を受ける予定だといいます。

 2020年3月にユトレヒトの北30キロにあるシンガー・ラーレン博物館から、フローニンゲン美術館から貸与されたゴッホの「春のヌエネン中老会庭園 」が盗まれた。翌年、アムステルダムの運河の端にある小さな場所でイケアのバッグに入れられて発見されています。犯人は収監されている麻薬王とされています。

 最近では、ニューヨークのオークション会社「サザビーズ」で11月8日、ピカソの絵画「腕時計をした女」が約210億円で落札されました。最近は中国のバイヤーが投機目的で購入する例が多いので、作品が公にならない事態も多くありますが、美術本来の目的が損なわれるのは嘆かわしいことです。


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 われわれは毎日、イスラエルのパレスチナ自治区ガザで乳幼児を含む民間人の死の報道を見せられています。結果、どんなに欧米メディアがユダヤ寄りだとしても、その惨劇に心が揺さぶられ、パレスチナ人への同情は、親パレスチナデモとして世界に波及しています。

 これは過激派組織イスラム国(IS)が勢力を一気に拡大した時との大きな違いです。世界中の虐げられた若者が聖戦主義に惹かれ、次々と戦闘員になる現象は起きましたが、IS戦闘員による斬首を繰り返す残虐行為の映像を見せられ、彼らを支持する国際世論は形成されませんでした。

 ハマスはもともとガザ地区で苦しむ住民への人道援助から出発したことは、パレスチナ解放戦線(PLO)とは違っていたといえます。米ウォールストリートジャーナル(WSJ)は、なぜ、ガザの住民はイスラエル軍による大量虐殺の原因を作ったハマスに文句をいわないのかと疑問を呈しています。

 そこにはハマスの巧妙な世論操作、イスラエルに虐げられるパレスチナ人への強い敵愾心があります。それはイスラエル政府が築いた高い壁で牢獄のようなガザ地区の中で醸成された成果です。われわれは国家を分離する壁が逆効果だったことを学んでいるともいえます。

 ガザ住民に選択肢はありません。ハマスに反発してもイスラエルが迎え入れるわけではないからです。壁が民間人を窒息死させています。

 ガザ住民の心から抜き取りがたい恨みが醸成され、冷静かつ客観的に情勢を見る目はなくなっているといえるでしょう。ユダヤ教にもイスラム教にも存在する報復の正義は、終わりのない憎しみの連鎖で殺戮を繰り返しています。

 世界は一様、イスラエルの民間人の犠牲を厭わない度を越したハマスせん滅作戦に強い不快感を示しながらも、反ユダヤ主義も良くないとして二つの世論が存在します。この2つの矛盾する世論はハマスの世論操作とも大きく関係しています。結果、ユダヤ人は国際世論を味方につけることには失敗しています。

 特にイスラエルのヨルダン川西岸のパレスチナ自治区への軍を派遣してまでの強引な入植を繰り返す国際法違反はイスラエル政府の評価を下げ続けています。つまり、そもそも75年前のイスラエル建国に同地域が同意していなかったことを今も引きずっている状態です。

 実は今回のイスラエル対ハマス戦争は、各国に根本的な政治の変化をもたらしています。それが顕著なのは欧州最大のユダヤ社会、アラブ社会を抱えるフランスで、特に過去の政治的構図は崩れています。その典型が急進左派の不服従のフランス党を率いるメランション党首で、彼にとっては今回の出来事で踏み絵を踏まされたといえます。

 100年前、フランスの急進的共産主義運動の中にはユダヤ人指導者が多くいました。メランションもその流れを知る人物でしたが、「メランションはイスラエルとの連帯を表明せず、イスラエルとハマスを同一視することでテロリズムを正当化することを選択した」と批判されました。

 12日の反ユダヤ主義に反対する大規模な抗議デモにもメランションは傘下ぜず、逆に極右・国民連合のル・ペン氏や党首は参加しました。ハマスはここでもフランス政治の分断に成功したといえそうです。

 ポピュリズムの風が吹き荒れ、冷静な判断より、その時々の感情で世論が移り変わりする時代をハマスはうまく利用しているといえます。ただ言えることは四国と同じくらいの小国イスラエルが発信する対立が世界の世論に大きな影響を与えている事実です。さらに国際社会は無力です。


 

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 教鞭をとっていたフランスのビジネススクールで中国人学生に聞いたことがある。「今では中国に優れた大学も多いのに、なぜお金の掛かる米英、フランスまで学びに来るのか」という質問に対して「いつどんな事態になっても生き延びる能力は身に付けておきたい」という答えが返ってきました。

 「へえ、そうなんだ」と思ったのは「いつどんな時代になっても」という言葉でした。これはベトナム人学生、インドネシア人学生、マレーシア人学生も口にするフレーズです。

 重ねて私は、その中国人に意地悪な質問をしてみました。「中国人の若者の勉強熱心は良くわかるけど、愛国心の強いあなたがたが海外で学ぶ意味がどこまであるの?」と聞くと「先生は分かっていない。中国政府は世界第2位の経済大国と胸を張っているけれど、ちょっと頭の回る中国人なら、政府の言うことなんて信じていない。いつパニックになるか分からない」と答えました。

 つまり、長い激動と変化の中に生きてきた中国人は常にリスクマネジメントを考えていることを伺わせる会話でした。北京の大学で教える友人の米国人教授は「習近平政権になってから言論への引き締めが厳しく、学生が教授の反政府的発言を通報するリスクに直面している」と言っています。

 一方、日本で働いたことのあるインドネシア人、ベトナム人から聞いた話は「自分たちは世界的に評価の高い日本企業でスキルアップしたいのに、企業は自分たちを使い捨ての駒のように使っていた」と失望を隠せない様子でした。すべての企業はそうとも言えませんが、期待が裏切られたというアジアの有能人材の話は有名です。

 無論、彼らは日本の質の高い製品やサービスが生まれる背景には心から感心している場合が多いのですが、それはとても民族的な性質によるところが大きく、具体的な個人のスキルアップは困難だったというアジア人は少なくありません。中にはうつ病になって帰国した人もいるくらいです。

 どんな状況でも生き抜く逞しい精神は、やはり不確かな状況によって育てられるのでしょう。海外から見れば日本人は過保護で安定ばかり求めているように見え、さらにはとても小さな満足や幸せしか求めていないように映っているようです。

 数億ドルの資産を持つ中国人の役人が自分の子供をアメリカに留学させ、いざ政変が起きたら、親子でアメリカで幸せに生き延びたいという中国人が少なくないのも、常に頭の中に激変が想定されているからです。日本以外のアジアの国では「稼げるときに稼ぐ」という考えが強いのもうなづけます。

 日系企業はアジアで遵法意識が低いことに悩まされていますが、違法行為は見つかれば「運が悪い」程度にしか受け止めていません。とにかく政府は信用せず、逞しく生き延びることが何より重要ということです。これは実は欧米でも同様で、親が教える中心にある精神です。

 逞しく生きるために重要なことは精神だけでなく情報収集です。日本企業の駐在員の研修で驚かされるのは情報収集力の低さです。国際情勢を含め、グローバルな情報収集力は、不安定な国の国民ほど高いと言えるかもしれません。

 実は私も若い時、リュックと寝袋を背負ってたった一人で放浪生活を続けた経験があり、その時の経験は今でも活かされています。情報収集を含めたサバイバル精神は人間本来の動物的本能を引き出す役にも立っています。
 

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 聖書には旧約、新約を通じて「汝殺すなかれ」という聖句がそれぞれに出てきます。旧約聖書では出エジプト記にモーセが神から与えられた十戒の6番目に「汝殺すなかれ」とあります。次は新約聖書のイエス・キリストの言葉として「汝殺すなかれ、殺されるなかれ」とあります。

 いずれも神と人間の関係において、道徳的に示されたものです。しかし、旧約だけを信じるユダヤ教、イスラム教、イエスを救世主とするキリスト教を信じる人々も戦争を繰り返し、殺戮は正当化され、今でもウクライナ、イスラエルの紛争は、これら3つの宗教が深く影響を与えています。

 アメリカ外交の基本はやられればやり返すというTit for tat、すなわち、しっぺ返しのゲーム理論である報復的正義が基本です。9・11米同日多発テロ後のタリバンが潜伏すると思われるアフガニスタン攻撃は、報復的正義によって行われました。この戦略は終わりのない戦いの繰り返ししかありません。

 神は十戒をイスラエル民族に与えた後、ヨルダン川を渡ってカナン族を滅ぼすように命じます。それもかなり残酷な征服と虐殺、死刑を含む厳格な刑の執行、奴隷や女性差別に関する記述は、宗教的背景や歴史の文脈を理解しなければ、十戒と矛盾するように見えます。

 これは、しばしば1神教に対する野蛮性、非文明性として批判され、特にユダヤ教、イスラム教が異教徒に対してとる極端に差別的な態度が、不平等、不公正、不道徳と今でも疑問視されています。

 一方、新約の『マタイによる福音書』5章38-39節に登場するイエスの「汝殺すなかれ、殺されるなかれ」の解釈は多少違います。その意味は復讐や悪に対して寛容であること、相手に慈悲を示すことと解釈され、「右の頬を打たれれば、左の頬を出しなさい」「汝の敵を許し、愛せよ」とも言っています。

 これはキリスト教の教義の核心に位置づけられ、高い目標となっていますが、あくまで目標、理想であって、人間は憎しみの感情を克服できずにいます。キリスト教では堕落して神の元を去った人間が許しを請うのが信仰の基本で、カトリックでは祈りにしばしば登場します。

 西洋社会は、これを文明の進歩と言い、もし、許しと寛容がすべての人間に拡がれば、公平で平等な社会が実現できるという基本的認識を持っていますが、文明が成熟していない分だけ、差別や憎悪が社会から消えないと考えられています。

 ここで問題になるのは境界です。民族や人種の境界、宗教の境界、国の境界、個々人の人間の境界が対立や憎悪を生み、戦争や紛争を繰り返してきました。

 民主的な自由社会で評価の高い北欧スウェーデンの学校現場に導入されている共感プログラムは、自分を大切に思うことで、他人を傷つけない人間をつくるというプログラムで、いじめ撲滅のプログラムとして、ヨーロッパ中に拡がっています。

 自分がして欲しくないことは他の人にもしないということですが、基本は人種、民族、宗教、国籍などの属性を取り払った「同じ人間」という出発点に立つことです。白人中心のスウェーデンも100年前には白人優性政策がとられ、異人種に対して強制妊娠中絶を行った暗い過去もあります。

 今、世界中の多くの若者がイスラエル軍によるパレスチナ民間人の大量虐殺を非難しているのは、SNSによって過去のいかなる時期より人間関係が深まった結果、同じ人間として共感できない不快感を持つ時代に入ったことを意味すると考えられます。

 国益も民族を守ることも重要ですが、だからといって他国や多民族を傷付けていいという論理は正当化できないはずです。それでは悪には打ち勝てないという理屈もありますが、そのためには国際協調と対話の継続は必須でしょう。



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 最近描いたパステル画、沢山の異なった種類のものが共存するモチーフの醸し出す美の世界を描いてみました

 私個人がフランス人妻と長年暮らしてきた経験から、異文化共存には高い関心を持っています。それは私の職業の一つであるグローバルビジネスのコンサルや人材育成とも深く関係しています。つまり、私の場合は頭で考えた知識としてのカルチャーダイバーシティではなく、そこに常に身を置いている現実があります。

 それは悪戦苦闘の毎日であり、大きな喜びと地獄の苦しみが同居していることを告白しなければなりません。しかし、最近、自分の体験的異文化共存が、役に立つ時代が到来していることを肌で感じています。

 理由は今、世界はまさに、このブログにも書いたように旧約聖書の影響を濃厚に受けるユダヤ教とイスラム教が絡んだ憎しみの連鎖に歯止めがかからず、その殺戮を世界が止められない現実を目の当たりにしているからです。

 日本に駐在する英国系企業に勤めるフランス人管理職の研修を行った時、その男性は「われわれ夫婦は、英国、イタリア、ブラジルに駐在してきたが、自分たちの理解の範囲内だった。しかし、日本は今まで体験したことのない異文化で当惑の連続だ」と言っていました。

 ヨーロッパでは24の言語が使われ、ケルト系、ゲルマン系、ラテン系、アングロサクソン系、スラブ系など民族も多岐にわたっています。それを取りまとめているのがキリスト教ですが、決して価値観は一枚岩ではなく、ヨーロッパのかつては殺戮と対立を繰り返し、ようやく戦争なしに共存できたのは最近の話です。

 しかし、その経験から彼らなりの異文化耐性が身に付き、今では人の移動の自由は保障され、英国人とフランス人、フランス人とドイツ人が互いに軽蔑する陰口を叩くことはあっても平和的に共存し、ダイバーシティの強みを引き出すことに合意しています。

 そんなヨーロッパも東洋との文化的ギャップは非常に大きく、先駆けて西洋文明を学び、戦後はアメリカ支配も受けた日本でさえ、西洋人から見れば理解不能なものは山のようにあります。

 しかし、ネット環境が整い、AIで言語の壁を取り払われる世界において、文化の壁は急速に低くなりつつあります。それは長年、異文化に身を置いてきた人間としても感じることです。無論、ネット上から得られる情報には限りもあり、コミュニケーション革命にはいい側面だけでなく、憎悪を煽る高いリスクも存在します。

 最近のウクライナ危機、イスラエルでの戦争を見ながら、ネット時代が必ずしも異文化共存に役立っていない現実にも遭遇しています。私の体験的異文化共存で、ハッキリしているのは、自分の仲間であるかどうかで、人間はどこまでも残酷になれることです。

 共存しなければ困る仲間内では、小さな諍いはあっても、なんとか調整しながら共存しようとしますが、仲間以外には無関心なだけでなく、無意識に差別や非人道的、非道徳的行動が容認される傾向があります。つながりのない人間には心も痛まない傾向があるのは事実です。

 同じ人間という認識を持つことは容易ではありません。私個人は非日本人の妻を持つことによって、少しは国籍や人種を超えて「同じ人間」という意識を持てるようになったことで、民族主義、選民思想、人種差別、血族主義、ナショナリズムに対する嫌悪を抱くようになりました。

 そこで思い出すのは高校生の時に読んだ『発想の周辺、安部公房対談集』(新潮社刊)の中で、作家、伊藤整との対談で「今から国際結婚が増えれば、子供には国境がなくなり、やがて戦争もなくなるだろう」という伊藤整の意見が述べられていて、強く共感しました。

 無論、ソ連帝国時代、無理やり連邦に組み込まれた国の国民がロシア人と結婚させられた効果が地域の安定に役立っているとは言えない現実を見ると、単純でないことは分かります。理由は国家という縛りが強烈だからです。韓国に嫁いだ日本人妻が反日になるのも同じような現象です。

 とはいえ、米ウォールストリートジャーナル(WSJ)が最近、掲載した「脱グローバル化は本当か、通説に逆行する新事実」によれば、貨物輸送量で見れば貿易は依然拡大中という現実は変わっておらず、グローバルビジネスが停滞どころか、コロナ禍後に加速化しているというわけです。

 私は、ますます、異文化共存が現実味を増しており、カルチャーダイバーシティの重要性は,これからの世界が平和でいられるためのカギを握っていると感じています。

 そのためには目標を共有し、成果を出すことに向かって協業するための組織の透明性を高めるなどの環境を整え、常に課題の抽出とコミュニケーションの深化を怠らない努力が必要だと考えています。


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 日本で開催された主要7か国(G7)の外相会議は、イスラエル・ハマス戦争に対して、戦闘休止の共同声明を出して閉幕しました。日本政府としては、当初、7か国の意見の相違から共同宣言は困難との見方があったため、先進7か国の一致した意見を世界に発信できたことに日本は高い満足を示しました。

 とはいえ、ウクライナ紛争同様、G7の影響力は高いとはいえず、昨今の紛争では存在は薄いのも確かです。ただ、もし、日本政府が中東和平に向け、仲介役として大きな役割を果たせば、存在感の低下が止まらない日本にとっては、一気に指導力が評価されるのは間違いないと思われます。

 では、果たして、東京で纏められたパレスチナ自治区ガザの民間人の退避のための戦闘休止は実現するのか、日本はそこで中心的役割を果たせるのか、また、日本の仲介に世界は期待しているのかは知っておきたいところです。安倍元首相が生きていたら、どんな指導力を発揮していたのかも気になるところです。

 今のイスラエル政府は、過去のいかなる時期よりも右傾化し、ユダヤ教超正統派に支配されており、ユダヤ教及びユダヤ民族主義によって、ガザ攻撃は正当化されています。ハマスが民間人を人間の盾としているとしても1万人を超える民間人犠牲者を出しても、ハマスせん滅のために攻撃を止めない状況をどう打開するのでしょうか。

 G7の中で、自国にユダヤ系、アラブ系住民が最も少ないのが日本です。つまり、イスラエルと同じような利権対立の構図がなく、日本は欧米が嫌うイランから大量の石油を買い続けており、G7の中では極めて特異な立場です。かつてはイラクの発展のために日系建設会社が大きな貢献を果たしました。

 サウジ発のアラブニュースの2019年の調査では、日本はイスラエル・ハマス戦争の調停者となる可能性があり、少なくとも、アラブ人の大多数がそれを望んでいるとの結果が出たと報じています。
 アラブ世界に住む人を対象にした同調査では、イスラエルとパレスチナ間の和平合意の実現に向けて最も中立的な調停者の名前を尋ねたところ、回答者の56%が日本を1位に挙げ、次いでEUが15%、ロシアが13%、米国は11%、英国は5%という結果でした。

 ところが欧米メディアは、今回東京でG7外相会議が開催され、共同宣言も出したにも関わらず、日本が調停者として最適と指摘する論調は、ほとんど見当たりません。むしろ、背景に日本がG7のメンバーであるにも関わらず、ユダヤ支持でないことへの不信感が漂っています。

 同調査を国籍別に見ると、ヨルダン人は仲介者として米国の支持が最も低く、中立的な仲介者と考えているのはわずか4%なのに対して、73%が日本を選び、圧倒的です。パレスチナ人もまた、リストの中で日本を上位に挙げており(50%)、次にパレスチナ人の27%がEUが良い仲介者になると答えました。

 専門家は「日本は常に交戦相手と等距離を保ってきた。アラブ世界との友好関係を維持しながら、パレスチナ人の権利とパレスチナ解放機構(PLO)を早い段階で認めた」ことを挙げています。

 さらに「日本はいずれにせよアラブ・イスラエル紛争に利害関係を持たないため、このような紛争では中立的な立場をとっている」「さらに、日本は中東から地理的に離れているため、紛争に対してより冷静なアプローチが可能」と指摘しています。

 ただ、海外での紛争に軍事的関りを一切持たない日本が、どんな外交を展開できるのか疑問は残ります。特に腕力の論理で動く中東で日本は調停役ができるのか、大いに疑問です。それよりグローバルサウスを含め、国際協調のまとめ役に徹した故安倍元首相の外交を踏襲すべきでしょう。

 ユダヤもアラブも世俗化が進んでおり、日本が欧米が指導して構築した国際ルールを踏襲しながらも、国際法にのっとった原則外交だけでなく、対立する2つの勢力の心を変える外交が必要です。理由は両者ともに国際ルールより、自分たちの論理が優先される傾向が強いからです。

 両者は超内向きですが、なんとか共有できる目標を見出し、孤立の道ではなく、和平こそが経済的繁栄の基礎という思想を定着させるための努力が必要でしょう。



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 イスラエル情勢が深刻化する中、誰もが何が起きているのか知りたがっています。ところがなかなか理解を困難にしている要因の中には、そもそもユダヤ人とアラブ人の対立が民族対立なのか、宗教対立なのか、政治対立なのか分析するための情報が複雑なことが挙げられます。

 世界に飛びかうイスラエル情勢は欧米メディアは完全にユダヤ寄りなので、パレスチナ自治区ガザで毎日起きている悲惨な惨劇を報じながらも、最後はイスラエルの民間人がハマスによって子供や女性を含め約1,400人殺害されたこと(実は10月7日の最初のハマス攻撃から数値はあまり変わっていない)、約240人の人質が取られていることを強調します。

 欧米、すなわちキリスト教圏は十字軍やイベリア半島のイスラム支配の歴史など、繰り返された対立が存在し、文明的にもキリスト教を超えて普遍性を持った近代市民社会、自由、平等、公正、人権尊重の優れた社会を構築した自負から、アラブ世界に対しては上から目線の傾向はメディアにも表れています。

 一方、例えばアラブ世界を代表するメディアのカタールのアルジャジーラの報道では、最近は毎日、ガザ地区の被害状況、イスラエル軍がガザに投下した爆弾の個数や戦車の数など詳細に報じ、パレスチナの民間人に寄り添った報道を続けています。

 それだけ見ていれば、イスラエル政府に対する憎悪、反ユダヤ主義が限りなく増幅されます。背景が理解できなければ、イスラエル政府の容赦のない攻撃、ハマスをせん滅する大義のために人間の盾となっている民間人や人質を殺害することを正当化するイスラエルの姿勢に憎悪を感じる人は多いはずです。

 まさに国際世論は分断されている状況です。イラク戦争が始まった20年前、ロンドンでは住宅の窓に「戦争反対」「戦争支持」と書かれた紙をよく見かけました。戦争反対の高校教師と戦争支持の大学教授の夫婦の家にたまたま宿泊していて、夫婦の会話に興味深いものがありました。

 戦争反対の妻の意見は大量破壊兵器の証拠がないことと人道的観点からの反対でした。戦争支持の保守派の夫は「われわれの普遍的価値観をいまこそはっきり示すべきだ」と主張していました。その意味は民主主義を軽視する独裁とイスラム教蔑視でした。

 フランスに住んでいると北アフリカやレバノンからの移民が多いためにアラブ人は身近な存在です。私が教鞭をとっていたフランスの大学にもアルジェリア人、モロッコ人、チュニジア人の教授や学生がいました。彼らは総じて非常に感情的で明らかにフランス人とは違っていました。

 「アラブ人」の定義は、一般的に言語的、文化的、地域的な共通性に基づいた集団とされ、民族として扱われることもあります。彼らはアラビア語を話し、その地域は広大です。また、アラブ文化や歴史に関連する多くの共通要素が存在します。
 ところが、アラビア語を母語とする人々は世界に散在しているために、アラビア語圏に住む人々はさまざまな宗教や民族的バックグラウンドを持つ場合もあります。時にはアラブ人は広義の意味で「民族」として扱われ、その中には異なる民族や宗教的グループも含まれます。

 例えばパレスチナ人はアラブ人ですが、彼らの中にはクリスチャンも多くいます。確かに言語、文化、歴史の面で共通の要素を共有し、アラブ人としてのアイデンティティを持つ人々なのでアラブ民族として認識されることもありますが、実はアイデンティティは多様です。

 宗教的アイデンティティと民族的アイデンティティのどちらが上かという議論もありますが、地域の歴史、風土など特性が大きな影響を与えているのも事実です。それにアラブ人のユダヤ人も異なった歴史物語を信じでおり、対立の糸口は見えていません。

 イスラエル戦争は、民族的アイデンティティと宗教的アイデンティティが複雑に絡み合っており、背景は単純ではありません。そこにプロパガンダ的で主観的な報道が双方から繰り返され、話をさらに複雑にしています。